Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

時代の流れ…レコード、ランプ、現代の学問について

2024年01月08日 22時45分53秒 | 読書・本を読む事への楽しみ誘い。日蓮正宗御本。その他一般著作物電子書籍・辞書類
時代の流れ…レコード、ランプ、現代の学問について
July 8, 2015, 5:44 am≫ Next: 暑すぎる…政治も気候も≪ Previous: アメリカの弱腰
 レコードをかける。プレーヤーにレコード盤がくるくると回る。その絵づらが何とも言えず、子供の頃から大好きだった。
 懐かしいレコード。それが CDに変わる。今はDVD、ブルーレイ、ダウンロードと規格と製品も購買方法も変わり、逆にCDも懐かしいような、まだ新しいと思っていたものが、初めてCDが登場したのが1980年代だからざっと30年は経っている。
 今はカセットテープもその粋が判る若者に流行り、古い万年筆で書く手紙もEメールよりも有り難みがあり、珍重されている。
 「ごんぎつね」「手袋を買いに」などの童話で知られる新美南吉の本で「おじいさんのランプ」という話がある。おじいさんは若い頃、貧乏に貧乏を重ねるが、ある日、歩いて出て行った大きな街で夕方淡く光る「ランプ」に魅せられる。その日のうちにランプをなんとか工面し、ランプのない自分の村でランプを売る商売を始める。最初は儲かった。嫁も来た。しかし、ある日突然、隣村で電信柱が立ち、おじいさんこと青年は工事をしている人たちにこれはなんだと聞く。すると電気だという。電気が通ればもう古いランプなどいらなくなり、楽になるという。これは大変だと青年はあれこれと画策し、自分の村に電気が来ないように足掻くが、時代には逆らえず、村長に直談判等しても果たせず、とうとう電気は自分の村に来る。そしておじいさんは、ランプを川の中洲の木に一つずつ取り付け、「俺の商売のやめ方は、これだ」と言って火を灯したランプを一つずつ石を投げてこわす。
 そして場面は現代のおじいさんと孫の会話に移る。古いランプが一台出てきた事が縁で孫に話していたおじいさん。孫は、今は本屋を営むおじいさんがその青年だったと気づき、そのランプをじっと見つめる。おじいさんは、時代に合わなくなった商売は、きっぱりと時には潔くやめ、新規に商売替えする事の重要性をこんこんと解き、話を締めくくる。
 この話は、わたしの小学校時代の道徳か国語の時間に習った事がある。小学校からだいぶ経ち、大人になってから母に読んで聞かせると、決まって、馬鹿だねえという反応が返って来た。
 母は、今はランプも貴重で、とって置けば古いもの程値打ちがあり高く売れるのに、とそのおじいさんを諌め、それに一台一台石を投げて破壊する労力は無駄と狂気に他ならず、川もガラスが粉々に散らばり、壊すのが気に入らず、後はどうするの、環境破壊だ、教育上悪影響だと言って大層憤慨していた。
 まあ、小説上の話で、実際こんな事をした人は過去にいたのかは知らぬが、破壊的な面で、ごんぎつねには劣る作品かも知れない。
 このおじいさんも、本来もっと商売に長(た)けて、続ける事が出来たならば、今のレコードやカセットがしぶとく生き残ったように、商売も意外に時代に打ち克ち長続きさせ、現代にも生き残れたのかもしれない。新美南吉も、戦中に若くして結核で亡くなったが、戦後の物質万能、物質崇拝の風潮をその時から予見していたのかも知れない。その時代に合わないものの商売替えの利益の勧めは、余りに後世の、現代受け、昭和元禄に受けてしまう程、ピッタリと現代資本主義にマッチしている。しかし、それも高度成長の頃限定で、その後のバブル崩壊、失われた20年を経た現代日本にはこの作品は限界があり、そぐわなくなりつつある。その破壊性、暴力性のみが強調されてはならないと思うが。
 今は何が受け、何が民衆に支持されるのかは全く不透明で、意外な所から次々とヒット作が出たりする。それも長続きするかどうかもわからず、昭和元禄に比べ霧に包まれ、暗中模索であり、高度成長時代よりも夢はなくなった。我らが生きる現代は、どこを見渡しても、マルクスが予言した一部の一社のみのガリバー世界企業に市場を占有支配された極めて高度に発達した、哀れな独占資本主義に毒された、不幸な時代なのかも知れない。
 しかし、マルクスが描いた原始共産社会→資本主義→社会・共産主義へとは時代はそう簡単には進まない気がする。共産主義に対する人々の嫌悪感を金持ちマルクスは何一つ知らない。暴力革命から正義などは産まれては来ず、何の正統性もない。
 近経、近代経済学以外で、マルクスを超える経済学って出て来ないのかねぇ。精神医学もフロイトやユングで止まっている。もっと今の何倍も学者も学校も必要なのかも知れない。
 犯罪、戦争などの人類の敵となる無用で悪の学問(果たしてそんな学校があるのか知らないが)よりも、人類に有益で慈悲と愛に満ちた善の学問を普及させ、学ぶ人も増えて行けばいいと本気で思う。

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