日本漢字能力検定(漢検) ブログランキングへ
●27-①対策として、文章題の実践問題を作成してみました。10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第10巻&第11巻 「北条霞亭」(上・下)より。
●北条 霞亭(ほうじょう かてい):安永9年9月5日(1780年10月2日~文政6年8月17日)。江戸時代の漢学者。志摩的矢出身。
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<文章題その3>
(その四十二)
・・・わたくしの謂ふ所の詩稿は、文化庚午(七年)十月某日に霞亭が大原寂光院の比丘尼に欵待せられ、寂如軒に宿する七律一、比丘尼が波玉と銘する桜材の香盒(こうごう)を贈つた時の七絶二を淡青色の巻紙に書したものである。・・・此等の詩は霞亭摘稿刊後の作であるのに、遺稿には見えない、又嵯峨樵歌も只「寄懐寂光院老尼」の七絶を載せて、前年の遭遇を註してゐない。それはとまれかくまれ・・・以上草し畢(お わ)って高橋氏蔵詩箋の謄本を閲するに、庚午(七年)のロウビ(臘 尾)には霞亭は林崎に帰つてゐたことが明である。これを証するものは高木呆翁の詩引である・・・
さて此書の作られた時は何時歟(いつか) 。・・・
・・・半兵衛は霞亭に託して吸物椀を買はうとした。然るに半兵衛はこれをフレン(不 廉)なりとした。文長きを以て、下に一部分を抄する。「しかし高直(たかね)に被存候而は甚気の毒に御坐候間、先々十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろしく候。(中略。)それも気に入不申候はゞ、皆々かへし候ても不苦候。只々余り度々永く留置候間、上下駄賃小生方より払遣可申候。」・・・
(その五十三)
・・・霞亭は文化壬申(九年)正月十一日に書を父適斎に寄せて、嵯峨の梅陽軒より京都市中に移るべきを告げ、十二日に又書を寄せて市中に移るに先だつて的矢に帰省すべきを報じた。既にして二十六日に至り、霞亭は書を門生梅谷某の父に与へ、これに託して的矢にキネイ(帰 寧)せざることを言はしめた。・・・わたくしは先づこれを読んで霞亭の帰郷を罷めたのを怪んだ。遽かに思ひ立つた帰郷の何故に罷められたかを怪んだ。しかし前に帰郷を報じた書は、此文に拠れ ば十二日にあらずして二十二日に発せられたるが如くである。わたくしは前書を誤読せしかと疑つて再検した。原字はすなほに読めば明に「十」である。「廿」 の艸体(そうたい)として視むことは頗難い。或は猶著意して強ひて此の如くに視るべきであらうか。わたくしは第(しばら)く疑を存して置く。(*著意(チャクイ)=意をもって。ある考えをもって。)
それはとまれかくまれ、霞亭が初に入市を言ひ、中ごろ入市に先だつて帰郷すべきを言ひ、最後に帰郷せずして入市すべきを言つたことは明白である。そして わたくしは今そのテイジ(逓 次)に意を翻した一々の動機を知ることを得ない。・・・壬申(九年)正月の三書は到底奇怪の書たることを免れない。
<コメント>「ロウビ」と「テイジ」でしょうか・・・少々難なのは。「テイジ」は文脈を追わないと出てこない熟語だと思います。
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●27-①対策として、文章題の実践問題を作成してみました。10回程度連載する予定です。ご感想やご意見もぜひお寄せください。
●文章題の回答訓練にお役立てください・・・
・ポイント①文意・文脈や(注)から該当する漢字や熟語が思い浮かぶようにする。よく文章と(注)を読んでください。
・ポイント②80~90%程度は回答できるレベルだと思います。水準以下だった場合は、他分野の訓練もあわせ注力してください。
・ポイント③公開済みの「26-③対策」も依然として有効ですので、復習用にぜひご活用ください。
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●鴎外歴史文学全集 第10巻&第11巻 「北条霞亭」(上・下)より。
●北条 霞亭(ほうじょう かてい):安永9年9月5日(1780年10月2日~文政6年8月17日)。江戸時代の漢学者。志摩的矢出身。
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<文章題その3>
(その四十二)
・・・わたくしの謂ふ所の詩稿は、文化庚午(七年)十月某日に霞亭が大原寂光院の比丘尼に欵待せられ、寂如軒に宿する七律一、比丘尼が波玉と銘する桜材の香盒(こうごう)を贈つた時の七絶二を淡青色の巻紙に書したものである。・・・此等の詩は霞亭摘稿刊後の作であるのに、遺稿には見えない、又嵯峨樵歌も只「寄懐寂光院老尼」の七絶を載せて、前年の遭遇を註してゐない。それはとまれかくまれ・・・以上草し畢(お わ)って高橋氏蔵詩箋の謄本を閲するに、庚午(七年)のロウビ(臘 尾)には霞亭は林崎に帰つてゐたことが明である。これを証するものは高木呆翁の詩引である・・・
さて此書の作られた時は何時歟(いつか) 。・・・
・・・半兵衛は霞亭に託して吸物椀を買はうとした。然るに半兵衛はこれをフレン(不 廉)なりとした。文長きを以て、下に一部分を抄する。「しかし高直(たかね)に被存候而は甚気の毒に御坐候間、先々十人前の分はらひ候。十人前は御かへし候てもよろしく候。(中略。)それも気に入不申候はゞ、皆々かへし候ても不苦候。只々余り度々永く留置候間、上下駄賃小生方より払遣可申候。」・・・
(その五十三)
・・・霞亭は文化壬申(九年)正月十一日に書を父適斎に寄せて、嵯峨の梅陽軒より京都市中に移るべきを告げ、十二日に又書を寄せて市中に移るに先だつて的矢に帰省すべきを報じた。既にして二十六日に至り、霞亭は書を門生梅谷某の父に与へ、これに託して的矢にキネイ(帰 寧)せざることを言はしめた。・・・わたくしは先づこれを読んで霞亭の帰郷を罷めたのを怪んだ。遽かに思ひ立つた帰郷の何故に罷められたかを怪んだ。しかし前に帰郷を報じた書は、此文に拠れ ば十二日にあらずして二十二日に発せられたるが如くである。わたくしは前書を誤読せしかと疑つて再検した。原字はすなほに読めば明に「十」である。「廿」 の艸体(そうたい)として視むことは頗難い。或は猶著意して強ひて此の如くに視るべきであらうか。わたくしは第(しばら)く疑を存して置く。(*著意(チャクイ)=意をもって。ある考えをもって。)
それはとまれかくまれ、霞亭が初に入市を言ひ、中ごろ入市に先だつて帰郷すべきを言ひ、最後に帰郷せずして入市すべきを言つたことは明白である。そして わたくしは今そのテイジ(逓 次)に意を翻した一々の動機を知ることを得ない。・・・壬申(九年)正月の三書は到底奇怪の書たることを免れない。
<コメント>「ロウビ」と「テイジ」でしょうか・・・少々難なのは。「テイジ」は文脈を追わないと出てこない熟語だと思います。
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