翻訳者の散歩道

  ☆ 法律翻訳者の思考のあれこれ ☆
(「翻訳者になりたい人のためのブログ」を統合し「第ⅡBlog〇〇編」と表記)

浅間山噴火

2009年02月05日 | 歴史
先日、浅間山が噴火しました。
長野県と群馬県との境にあって、その北側は六里ヶ原という草原になっており、火山灰の土質で大きな樹木が育たず、山裾近く奇岩の連なる奇観景勝の地「鬼押し出し」があるのはご存知かと思います。
その鬼押し出しから北に6キロほど行ったところに鎌原観音堂がありますが、この観音堂には歴史的事件(?)があるようです。

1783年(天明3年)、日本は春から夏にかけての長雨により洪水の被害が各地で起こりました。実は、これはその後の破局の始まりだったのです。
その年の6月25日、浅間山が噴火。この爆発は1707年(宝永4年)の富士山の噴火と並び日本の火山噴火史上最も激しいものとされています。
浅間山はその日から爆発を続け、その鳴動は北海道から京都、大阪に至るまで響き渡ったとされていますから驚きです。
そして、火砕流は六里ヶ原の森林を焼き尽くしながら進み、あっという間に鎌原村を襲いました。その火砕流のスピードは時速100kmとか。

さて、その鎌原村の外れに観音堂がありました。
生き残った村人は観音堂を目指して小高い丘を上ります。
最後に老女を背負った若い女性(母娘という説も)が丘の下の階段にたどり着きました。階段を上りかけたその時、火砕流が追いつき、一瞬に二人を飲み込んでしまったのです。
観音堂に続く15段の階段を残して。(この階段は2009年の噴火ニュースの映像でも紹介されておりました。)
  “天明の生死を分かつ十五段”

その後も、火砕流は多くの人の命を飲み込んでいきました。
最後に火口から溶岩を噴出し、この溶岩は鎌原の火砕流の上に30mの厚さで堆積し黒灰色にかたまり、奇奇怪怪の岩だらけ原野となったのです。これが上記でも触れた“鬼押し出し”です。

さらに、この浅間山の噴火は天明時代の悲劇の幕開けでもありました。
噴火は2ヶ月も続き、噴き上げられた灰塵などの微粒子は時には上空15,000mにまで達したといわれ、そのまま浮遊。その結果、フィルターになって太陽の恵みを遮断してしまいました。つまり、稲作を中心とした農作物に大きな損害を与え、未曾有(←読めますね?)の大凶作となり、いわゆる「天明の大飢饉」につながっていくのです。

 (この項、続く)

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