昨日、FBに今から20年近く前にポルトガルとインドから輸入した商材をUPし、それを眺めながら当時の事をふと思い出していたのだが、忘れないように書き記しておこうと思う。
【 ポルトガル 】
ポルトガルは、カナダはトロントでの留学生活を終え、そこからその足で地球を日本と反対方向に跳び仕事に入った国である。
全く予備知識もなく、リスボンに着き初めて、その国の通貨がエスクードという事を知ったのであった。
我が父が日本よりリスボンにやってくる2日か3日前にリスボンに着いた僕は、トロントでの友人達との別れの淋しさを胸に1人てくてくと街を歩いたのであった。
それ故か、ポルトガルの街のイメージは今でも『哀』であり、目抜き通りの脇の乞食が弦の切れたバイオリンを手に『イパネマの娘』を弾いていた情景が忘れられない。
歩き疲れて立ち寄った何処かのホテルのバルのカウンターで生ビールを飲んでいると、隣の白人と黒人半々の若手グループが癖のある英語で話しているのに気づいた。
日本語は勿論の事、英語すら通じないこの地にて会話に飢えていた僕は、自発的に彼らに話しかけていた。
話すと彼らは、南アフリカ航空のクルー達であった。南アフリカからリスボンに飛んできて、2日ほど滞在してまた南アフリカに戻るとの事。
僕の隣にいた白人のチーフパーサーと話が弾み、結局、その日と翌日の2日間を僕はそのクルー達と行動を共にし、観光に廻ったのであった。
残念乍、世話になったそのチーフパーサーの名前も顔ももう思い出せない。あの頃はメールもなかったのだ。
全くもってもう二度と再会する接点がなくなってしまったのだが、あんなに優しい人だったからきっと今も幸せに過ごされているのであろうと願っている。
【 インド 】
デリーには新市街であるニューデリーと旧市街であるオールドデリーがあり、その境目にコンノートプレイスという街の中心部がある。
いつも単身の僕は勿論この時も然り、1人でコンノートプレイス界隈にある宝石店を見て歩いていたのだが、道を誤って迷い旧市街の明らかに柄の悪いエリアに入り込んでしまった時は流石に焦ったのであった。
通りには人だらけで、ロッタリーを売る男達の大声だけが彼方此方に錯綜していた。
そんな中、ひとりスーツ姿の僕は速足でその場を離れたのであった。
暑い陽射しの下を歩いていると、道端に大きな秤を置いて座っているオトコがいた。
彼の仕事は『体重計り屋さん』なのである。
興味深々と見ていると、秤に乗れという。しかし載るとお金を取られるのである。
儲かるのだろうか…
歩き疲れて見つけたホテルのロビーにあるラウンジでビールを頼んだ。
この国のこの手の店では、各テーブルに担当者が決まっており、何かを頼む時にはそのボーイに声をかけなければならない事はもちろん知っていたのだが、いざボーイを探そうとしたら全員が同じマリオブラザーズ顔で、どの人が僕担当のルイジなのか本当にわからなくなり困ったりした。
夜、僕が常宿としたハイアットからそれほど離れてないホテルにクラブ(ディスコ)があるという情報を得てひとり向かったのだが、そこはどうやらそのホテルの宿泊者だけのクラブのようであり、入口にて僕の前に並ぶ客達は其々にルームナンバーを告げ名前と照合されてから中に入っていった。
僕はどうしようかと迷ったのだが順番となり、適当な部屋番号を無表情で言って、テーブルの脇からチェックするオトコにくちゃくちゃにした紙幣を握らせると、暗黙の了解で中に入ることが出来たのであった。
思えばこれが僕の人生における初めての賄賂であった。
そうそう、取引先オーナーのクマールはインド人のくせに一緒にインド料理レストランに行くと、オーダーの時に「僕のカレーは甘口で」と頼んだのには大笑いしたのであった。
インド人が甘口カレーて… あり得んやろ
なんだか振り返れば、僕も満更でない人生経験をしていると思う。
そしてこれから先も楽しみである。