「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」(コリントⅠ 12:4-7)
コリントの教会には、分裂や分派があったことが分かっている。
その流れの中で、信者の中にお互いの賜物の優劣を比較したり、競争する意識があったようだ。
そのため、せっかく神様から与えられた御霊の賜物も、教会内の混乱を助長する材料になっていたと推測される。
彼らは教会に所属していながら、キリストの体としての教会観を持っていなかった。
パウロは、そんなコリント人の教会を諭すようにここで教えている。
それぞれの役割、それを果たすために与えられた才能は違うけれど、元は一つ。
主が各自に授けられたのだ。
私たちは、違いに敏感だ。
自分と異なることに必要以上に違和感を覚えてしまう。
もちろん、何でもかんでも同意すればいいというのではないし、自分の考えを持つなと言っているのではない。
しかし、本来一つであるはずの教会が、余計なこだわりでバラバラになっているのは、教会の頭である主なる神様を悲しませてしまうだろう。
数週間前にドイツの宗教改革とスイスの宗教改革について学んだ。
ドイツの宗教改革のリーダーであるルターとスイスのリーダーのツウィングリがマールブルクの城で会談した。
しかし、結局その会合で両者の協力は実現しなかった。
聖餐に関する見解が異なるという一つの理由で、他の多数の項目への見解が一致したにもかかわらず、受け入れられなかったそうだ。
どうやらルターの方が、相手を受け入れることができなかったらしい。
しかも、後にツウィングリが従軍牧師として戦死した時、ルターはそれを喜んだという話も残っている。
ルターの功績を考える時、彼がツウィングリに対して取った態度とイメージは結びつきにくい。
偉大な功績を残した聖徒は、私たちと違う特別な人であるかのように錯覚してしまう。
しかし実際は、すべての人間には通じるところがあるようで、非常に考えさせられる。
詳細においての見解や役割は違うことを認めつつ、聖書に基づく基本的な教理・信仰の立場が同じであるとはっきりしているならば、お互いを尊重し認めていくことができればいいのにと思う。
私の考えがまだまだ浅はかなのかもしれないが、「賜物・奉仕・働きは違っても、同じ御霊、同じ主、同じ神」という信仰の軸足は動かさないで行きたい。
コリントの教会には、分裂や分派があったことが分かっている。
その流れの中で、信者の中にお互いの賜物の優劣を比較したり、競争する意識があったようだ。
そのため、せっかく神様から与えられた御霊の賜物も、教会内の混乱を助長する材料になっていたと推測される。
彼らは教会に所属していながら、キリストの体としての教会観を持っていなかった。
パウロは、そんなコリント人の教会を諭すようにここで教えている。
それぞれの役割、それを果たすために与えられた才能は違うけれど、元は一つ。
主が各自に授けられたのだ。
私たちは、違いに敏感だ。
自分と異なることに必要以上に違和感を覚えてしまう。
もちろん、何でもかんでも同意すればいいというのではないし、自分の考えを持つなと言っているのではない。
しかし、本来一つであるはずの教会が、余計なこだわりでバラバラになっているのは、教会の頭である主なる神様を悲しませてしまうだろう。
数週間前にドイツの宗教改革とスイスの宗教改革について学んだ。
ドイツの宗教改革のリーダーであるルターとスイスのリーダーのツウィングリがマールブルクの城で会談した。
しかし、結局その会合で両者の協力は実現しなかった。
聖餐に関する見解が異なるという一つの理由で、他の多数の項目への見解が一致したにもかかわらず、受け入れられなかったそうだ。
どうやらルターの方が、相手を受け入れることができなかったらしい。
しかも、後にツウィングリが従軍牧師として戦死した時、ルターはそれを喜んだという話も残っている。
ルターの功績を考える時、彼がツウィングリに対して取った態度とイメージは結びつきにくい。
偉大な功績を残した聖徒は、私たちと違う特別な人であるかのように錯覚してしまう。
しかし実際は、すべての人間には通じるところがあるようで、非常に考えさせられる。
詳細においての見解や役割は違うことを認めつつ、聖書に基づく基本的な教理・信仰の立場が同じであるとはっきりしているならば、お互いを尊重し認めていくことができればいいのにと思う。
私の考えがまだまだ浅はかなのかもしれないが、「賜物・奉仕・働きは違っても、同じ御霊、同じ主、同じ神」という信仰の軸足は動かさないで行きたい。