「信仰生活のアップダウン」
聖書箇所:創世記12:10-20
シェケムで自分に現れた主に祭壇を築いたアブラム。
ベテルでも祭壇を築き、主の御名によって祈った。
アブラムは、信仰のトレーニングを受けることになる。
後に「信仰の父」と呼ばれるアブラム。
しかし、初めから非の打ち所のない信仰者だったわけではない。
カナンに激しい飢饉が発生。
アブラムは解決策を考える。
エジプトに一時的に移住するというもの。
しかも、エジプトへ行く前に一計を案じる。
妻サライに「妹だと言ってくれ」と頼む。
彼が打ち出した解決策。
自分の生活を守り、また周囲からの厚遇を確保するのが狙いだった。
ちなみにサライはアブラムの異母兄妹なので、妹というのは全くの嘘ではない。
そして、事態はアブラムの目論見どおり進む。
美しいサライがエジプト人の目に留まり、宮廷に召し入れられる。
自分の命は助かり、サライの兄ということで、エジプト王の厚遇を受ける。
カナンの飢饉で財産を失うどころか、エジプトで彼は相当の資産を持つようになる。
「しかし」(17節)と聖書は続く。
アブラムのしたことは、主のみこころに反していた。
不思議なことに、主は直接アブラムを罰することをしなかった。
むしろ、知らずとはいえアブラムの妻を奪ったということで、パロを罰した。
「しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」(17節)
その結果、アブラムはエジプトの王の叱責を受けるという形で、間接的に主の懲らしめを受けることになった。
前の箇所では、主の現われに対して祭壇を築いて、敬虔な礼拝者としての姿を見せたアブラム。
しかし、この時は自己保身のために妻をも利用してしまう打算的な人間の姿。
どちらもひとりの人アブラムであることは言うまでもない。
同じ人物がこうも変わってしまうのかと驚くかもしれない。
しかし、これはアブラムだけのこととして片付けられない。
すべての信仰者に訪れる信仰のアップダウン。
ある時は熱心に主を求め、またある時は自分のことばかり考えている。
同じ人が置かれる環境によってこうも違うものかと思う。
一体何が問題なのだろう?
残念ながら、ここ創世記ではストーリーを伝えるのみで多くを語ってはいない。
今回は、この箇所に即した原則を箴言から学ぶ。
①「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
確かに私たちはあれこれ思案する。
「考える葦」とパスカルはたとえた。
考えること自体は否定していない。
しかし、決定的な主権者が主なる神様であることは大前提である。
②「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)
私たちは他者の意見を尊重したり、聞く耳は持っていなければならない。
しかし、人を恐れることで、本当に大切にすべきことを見失ってはならない。
③「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」(箴言3:11,12)
信じる者を懲らしめるのは、愛するがゆえである。
この地上での生涯の中で、主は私たちが整えられ成長するために時には懲らしめを与えられる。
しかし、決して見捨てられたのではない。
愛するがゆえである。
自分の過ちに気付かされた時、「もうだめだ」と諦めないで、謙虚に自分の非を認め、主の赦しを頂くことができる。