最近の礼拝では、出エジプト記の律法の規定から学んでいます。
教会の月報用にまとめたあらすじです。
十戒を授かり、神の臨在を目撃したイスラエル人たち。
主はモーセに民へのメッセージを託した。
再度、神との関係を強調し(23)、その上で祭壇に関する教えに触れる(24-26)。
こうした『規定の始め』に祭壇に関する事柄が来るのは、当時の他の文化とも共通する点である。
その場合、少なくとも、律法における祭壇の占める位置付けは明確である。
規定によって人の罪が明らかになり、その贖いの必要性が生じるからである。
また、祭壇でいけにえがささげられることにより、神は民に臨み、祝福を与える(24)ということである。
私たちにとっては、まさにキリストによる贖いを想起させるものである。
この祭壇に近づく際には階段を用いることが禁じられた(26)。
裸を見せないためである。
聖なる神に近づく罪人の謙遜な姿を示すと言われる。
贖いによる罪の赦しと神の臨在と祝福が約束されているとは言え、自らの罪深さを意識しない高慢さは神に受け入れられない。
具体的な規定に入り、まず最初に取り上げられるのが、奴隷の扱いに関するものである。
奴隷の存在自体はすでに族長時代に確認できる。
ここでは、神が奴隷の扱いに一定の秩序を与えた。
あらためて見ていくと『神の知恵と配慮』の込められた規定である。
当時の諸文化の規定と比較すると、規定のこの位置に奴隷に関する事項が来るのは異例のこと。
神の劇的な救出を経験し、エジプトの奴隷から解放されたことを思うと、イスラエルにはまさにふさわしい規定なのであるが。
7年目の自由の保障(2)や奴隷として残るという選択の権利と儀式(5)には、自由が与えられながら、主人や家族への愛情を理由に自発的にしもべの人生を選ぶ者の姿が浮かび上がる。
これもまた苦難のしもべであるキリストを想起させる節である。
また、女奴隷の立場の保護の規定(7-11)も含めて、神の民という共同体が健全に機能していくための神の知恵と配慮の深さに、私たちは恐れと驚きを覚え、御名をあがめるのである。
教会の月報用にまとめたあらすじです。
十戒を授かり、神の臨在を目撃したイスラエル人たち。
主はモーセに民へのメッセージを託した。
再度、神との関係を強調し(23)、その上で祭壇に関する教えに触れる(24-26)。
こうした『規定の始め』に祭壇に関する事柄が来るのは、当時の他の文化とも共通する点である。
その場合、少なくとも、律法における祭壇の占める位置付けは明確である。
規定によって人の罪が明らかになり、その贖いの必要性が生じるからである。
また、祭壇でいけにえがささげられることにより、神は民に臨み、祝福を与える(24)ということである。
私たちにとっては、まさにキリストによる贖いを想起させるものである。
この祭壇に近づく際には階段を用いることが禁じられた(26)。
裸を見せないためである。
聖なる神に近づく罪人の謙遜な姿を示すと言われる。
贖いによる罪の赦しと神の臨在と祝福が約束されているとは言え、自らの罪深さを意識しない高慢さは神に受け入れられない。
具体的な規定に入り、まず最初に取り上げられるのが、奴隷の扱いに関するものである。
奴隷の存在自体はすでに族長時代に確認できる。
ここでは、神が奴隷の扱いに一定の秩序を与えた。
あらためて見ていくと『神の知恵と配慮』の込められた規定である。
当時の諸文化の規定と比較すると、規定のこの位置に奴隷に関する事項が来るのは異例のこと。
神の劇的な救出を経験し、エジプトの奴隷から解放されたことを思うと、イスラエルにはまさにふさわしい規定なのであるが。
7年目の自由の保障(2)や奴隷として残るという選択の権利と儀式(5)には、自由が与えられながら、主人や家族への愛情を理由に自発的にしもべの人生を選ぶ者の姿が浮かび上がる。
これもまた苦難のしもべであるキリストを想起させる節である。
また、女奴隷の立場の保護の規定(7-11)も含めて、神の民という共同体が健全に機能していくための神の知恵と配慮の深さに、私たちは恐れと驚きを覚え、御名をあがめるのである。