明日の祈祷会で使うテキストの準備をした。
「なぜ恵みはすべてを変えるのか」をずっと読み進めてきた。
明日はいよいよ10章に入る。
9章では信者が受けている自由について学んだ。
信者はどんなことをしても良いという自由を受けていることを確認した。
しかし、それは他者を愛する自由、他者に仕える自由である。
自由を自分の欲望のために用いるのではなく、かえってその自由で他者のために生きることを学んだ。
私たちが神様から頂いた自由は誰からも奪われることはない。
それを受けて10章に進む。
10章では、自由は放縦に変わってしまわないか?という問題提起で始まる。
聖書が私たちに保証している自由は、あまりにも危険ではないかという心配が起こる。
それは初代の教会の中でも問題にされたことだ。
もちろん当時の教会の中に自由を勘違いしていた人もいたのだろう。
しかし、本当に神様の愛を知り、イエス様の身代わりで自分の罪が赦されたのだと知った人が、罪を犯し続けることができるだろうか?
最も大切なものを犠牲にして救ってくれたお方を、罪を故意に犯すことで悲しませたいとおもうだろうか?
しかも、イエス様を信じる者は神の義を頂くとされている。
イエス・キリストの死は、彼一人の死というだけではなく、すべての人を代表したのだから、彼を信じる者は彼と共に死んだという事になる。
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)
罪に支配される古い人は、キリストともに死んだとされている。
もはや罪の罰を受ける必要がなくなっている。
また罪の力と誘惑の前に、ルール(律法)では私たちをつなぎとめておくことはできない。
もしルールを破る時の罰を恐れる心を利用して罪から離れようとするなら、その人の心には苦しみと窮屈さしかないだろう。
聖書の示す福音はそれとは違う。
罪がどんなに魅力的に見えたとしても、それに優る神の愛を知る喜びや平安を体験するなら、自然と罪から遠のくのは理解できる。
私たちが、ルールを意識することより、父なる神様の愛やイエス様の恵み、聖霊様の導きに心を向けるなら、自分の生活の中に力強く働きかける神様の力を体験するだろう。そこに本当の自由がある。
「なぜ恵みはすべてを変えるのか」をずっと読み進めてきた。
明日はいよいよ10章に入る。
9章では信者が受けている自由について学んだ。
信者はどんなことをしても良いという自由を受けていることを確認した。
しかし、それは他者を愛する自由、他者に仕える自由である。
自由を自分の欲望のために用いるのではなく、かえってその自由で他者のために生きることを学んだ。
私たちが神様から頂いた自由は誰からも奪われることはない。
それを受けて10章に進む。
10章では、自由は放縦に変わってしまわないか?という問題提起で始まる。
聖書が私たちに保証している自由は、あまりにも危険ではないかという心配が起こる。
それは初代の教会の中でも問題にされたことだ。
もちろん当時の教会の中に自由を勘違いしていた人もいたのだろう。
しかし、本当に神様の愛を知り、イエス様の身代わりで自分の罪が赦されたのだと知った人が、罪を犯し続けることができるだろうか?
最も大切なものを犠牲にして救ってくれたお方を、罪を故意に犯すことで悲しませたいとおもうだろうか?
しかも、イエス様を信じる者は神の義を頂くとされている。
イエス・キリストの死は、彼一人の死というだけではなく、すべての人を代表したのだから、彼を信じる者は彼と共に死んだという事になる。
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)
罪に支配される古い人は、キリストともに死んだとされている。
もはや罪の罰を受ける必要がなくなっている。
また罪の力と誘惑の前に、ルール(律法)では私たちをつなぎとめておくことはできない。
もしルールを破る時の罰を恐れる心を利用して罪から離れようとするなら、その人の心には苦しみと窮屈さしかないだろう。
聖書の示す福音はそれとは違う。
罪がどんなに魅力的に見えたとしても、それに優る神の愛を知る喜びや平安を体験するなら、自然と罪から遠のくのは理解できる。
私たちが、ルールを意識することより、父なる神様の愛やイエス様の恵み、聖霊様の導きに心を向けるなら、自分の生活の中に力強く働きかける神様の力を体験するだろう。そこに本当の自由がある。