今年も5月末に信徒総会を終えました。
教会のみなさんと2018年度の運営を振り返り、決算や行事の報告の場を持ちました。3年目の東村山聖書教会に、主が備えてくださった数々の恵みを確かめることになりました。
活動の規模の大小で言えばささやかでしょうが、集っているひとりひとりがキリストの救いとみことばに生かされている姿は宣教に用いられています。今の教会の集まりに与えられている穏やかさと落ち着きは、これまでの3年間の積み重ねの実りなのだと思います。
主の御業への期待と祈りを新たにしています。
しばらく、更新していませんでしたので、4-5月の礼拝説教のあらすじを掲載しておきます。(旧約聖書からの講解説教の分のみで3回)
2019年4月 Ⅰサムエル記2:18-21
神は、みこころのままに人を召して、ご自身に仕える者とする。サムエルの奉仕は、母が彼の身を祭司エリに託す形で始まったものの(2:11)、次第にサムエル自身の自覚も伴い、相応の務めを果たすようになっていたと考えられる(2:18)。「亜麻布のエポデをまとった幼いしもべとして『主の前に仕えていた』」と伝えられる。母ハンナは、息子の成長を気にかけて、「小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。」(2:19)普段は離れていても、母の信仰と愛情は、息子サムエルの奉仕の日々を支えていた。一方、祭司エリの祈りとともに、主はハンナを顧みて、サムエルの他にも子供たちを授けた(2:20)。主はサムエルを育み、そればかりでなく彼の家族をも顧みて、祝福していた。神は、人の献身や奉仕を導き、祝福する。私たちは神に期待し、信仰継承や献身する者とその家族のために祈りつつ、実際に支援する者でありたい。
2019年5月 Ⅰサムエル記2:22-36
霊的成長や健全な信仰について考えるとき、神との関係や人との関係は重要だ。祭司エリの息子たちの言動は、イスラエルの民の間で評判が悪かった(2:23,24)。実際に、彼らの行いは悪く、律法に反した罪深いものだった。エリは、「主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか」と息子たちを厳しいことばで忠告しなければならなかった(2:25)。彼らは、公平かつ憐れみ深い主をないがしろにし、なおかつ主の民を悩ましていた。その一方、聖書はサムエルについてこう伝える。(2:26)「少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」主にも人々にも良く思われていたのは、エリの息子たちと対照的だ。若者に信仰と知恵を教える書、箴言にも「神と人との前に好意を得、聡明であれ」と勧められている(3:4)。新約聖書ではルカが、「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」としている(ルカ2:52)。私たちの信仰の生涯が『主にも人にも』良いものへと整えられますように。
神は歴史の主である。神はかつてイスラエルの民の中からレビ族を選び、さらにその中から祭司の一族を立てて、礼拝の務めを委ねてきた(2:28)。しかし、不忠実な奉仕を続けるエリの息子たち、ホフニとピネハスのことでエリに預言者が遣わされ、さばきの宣告が下された(2:30-36)。やがてその通りとなる(4:11;Ⅰ列王記2:26,27)。ただし、神はさばきの宣告のうちにも、将来に希望があることも示す。「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む」(2:35)という。神によって『忠実な祭司』が現れるという予告だ。しかも、「わたしに油注がれた者の前を」とは、王による統治が忠実な祭司の奉仕とともにあるのを示唆している。それは、ダビデ王の時代に祭司として奉仕するツァドク(Ⅱサムエル8:17; Ⅰ歴代誌24:3)のことを言うようだ。古代イスラエル王国に忠実な祭司の存在が約束されたのと重ねて、私たちは思い起こす。神の国は、王であり忠実な大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル2:17,18)の御業によって、揺るぎないものである。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。