月報に掲載している礼拝説教のあらすじ(4・5月分)です。
現在は、
旧約聖書の出エジプト記を続けて学んでいます。
神とイスラエルの関係を学ぶ中から、様々なことを教えられています。
25:1で「主はモーセに告げて仰せられた」という記述以降、幕屋と幕屋で仕える祭司に関する規定が述べられてきた。それは、特に29:45,46で見たように、幕屋が主なる神の臨在の象徴であり、イスラエルの民にとって、主を知るための手がかりとなるためであった。そして、30:11で再び「主はモーセに仰せられた」という節が入る。その後、小刻みに同じような表現がくり返される(30:11,17,22,34;31:1,12)。補足的な事項の列挙の一つに、人口調査、登録の際に二十歳以上の男子全員が一律に納める半シェケルの贖い金の規定がある。神の民イスラエルの一員として登録されることにも、贖いが関係していることは興味深い。神は、それを『イスラエルのための記念として』行うべきとした。この贖い金の規定は、真理を示すのと幕屋の維持費を生み出すという役目を果たした。
神は、モーセに告げた幕屋の建設という仕事のために、『協力者の備え』をしていた。主はべツァルエルとオホリアブの二人を指名した。べツァルエルは、この務めのために神の霊に満たされた。神の霊は、知恵(主の指示を実現するために必要なことを理解する)と英知(複雑な建造物の建設で不可避な問題を解決する)と知識(具体的な作業を進めるために必要な経験的知識)とを彼に備えていた。オホリアブは、べツァルエルの右腕としてサポートする役目に任じられた。幕屋や祭司の服装などは明確な数値や素材などの指示もあるものの、彼らの賜物が自由に発揮される余地も充分残されていた。モーセを通して与えられた設計の指示と、神の霊による彼らの賜物、そして、各自が役割をふさわしく果たすための責任と権限の所在、これらが適切に保たれる必要があった。教会においても、主は各自にそれぞれの奉仕と賜物と権限を与えておられる。私たちは、与えられた自らの奉仕と賜物と権限を理解し、主にふさわしく仕えていきたい。
主がシナイ山でモーセに語ったことの締めくくりの部分。それは安息日の規定についてであった。すでに第四戒(20:8-11)で伝えられていたことだったが、ここで再確認されている。安息日の規定は、「代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし」(13)、「永遠の契約」(16)、「永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるし」(17)と告げられている。そのように、『しるしとしての安息日』は、創造主なる神とイスラエルの特別な関係を示すものである。
イスラエルは、この規定を守ることで主を覚えることが期待されていた。「わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである」(13)その目的は、ここまで語られてきた幕屋と祭司の規定とも密接な関連がある。幕屋と祭司の存在は、イスラエルに視覚的に主の臨在を示すものであったはずである。そして、安息日の規定は、ライフスタイルの中で経験的に主の臨在を覚えることになったはずである。
また、安息日の規定は、神の創造の御業との関連で命じられていることにも注目したい。神は「七日目に休み、いこわれた」という表現をもって、人に安息日を命じている。つまり、命令という形式ではあるが、神はイスラエルに休息と憩いを宣言しているのである。神とイスラエルの関係を示すしるしとしての安息日が、労働や奉仕ではなく、むしろ休息と憩いであることを覚えたい。
確かに、私たちは主イエスによる新しい契約に生きる者であって、古い契約である律法に束縛されているわけではない。しかし、神の選びにより特別な関係に招き入れられているのであり、神のくださる休息と憩いを経験しているのである。それゆえに、共に召された兄弟姉妹と礼拝のために集まり、神の御前に静まることは、神の民の本来の姿としてふさわしいものであろう。
最後まで読んでくださってありがとうございました