マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

人選

2010-06-05 19:44:13 | 教会の風景


教会の庭で咲いているバラです。
前任の牧師さんが恩師から頂いて大切にしていたものです。
たくさんのつぼみをつけているので、これから次々に咲いていくでしょう。


さて、今日の午前中は、ユースのメッセージの準備で使徒の働きを読んでいました。
11章のアンテオケに派遣されたバルナバの記録を取り上げます。
この時にバルナバが用いられたところに、改めて神の配慮の深さを覚えます。
教会において人を用いられる神の御手に希望を抱いています。

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甘え

2010-06-04 21:34:14 | 最近の読書
教会の庭に生えているレモンバームです。
冬の間は枯れてしまったように見えましたが、冬を越えて、元気に芽を出して、広がってきました。

さて、話は変わりますが、最近読書をしながら、私の心にとまっているキーワードは、「被害者意識」です。
誰しも自分が大切にしている存在や事物を失うと痛みを感じ、喪失感を味わいます。
その喪失の原因を生み出した加害者がいれば、その加害者に対しての被害者意識が生じるのも自然なことでしょう。

ですが、根拠の希薄な被害者意識(被害者感)に容易に陥ってしまう思考のメカニズムは一体何なのだろうと、しばらく前から時折考えていたのでした。

ちょうど本日届いた「牧会ジャーナル 2010年夏号」で、「『失うこと』と向き合う」というテーマで特集が組まれていました。
「過去の傷と被害者感からの回復を目指す」(斉藤善樹 東京聖書学院教授 学院教会牧師)の記事の中で「主体的に道を開く態度」という小見出しがあります。
「・・・しばしば依存的な傾向が強い人は被害者感が強くなるようです。
依存的な行動や思考はしばしば回復の支障になります。・・・回復していくためには自らが主体的となり、道を開いていく態度が必要となります。・・・」

これを読んで、「そうですよね」と納得。

それと、この前買った本、「甘えの構造」(土居健郎 著 弘文堂)の中にも、「甘え」の病理という章で、被害感について論じられていました。
「・・・結局、邪魔意識すなわち被害的心理は甘えの心理と密接な関係があり、日本の社会では甘えの心理が支配的であればこそ、邪魔ということを人々が強く意識するようになったのだということができよう。・・・」

いずれにしても、極端な被害者意識の根底には、「甘え」もしくは「依存」という状態があるということなのでしょう。
ここで、人として、信仰者としての成熟が問われるのは、こうした内面のあり方だと私は思います。
もちろん、加害者の正当な謝罪や償いも必要なことは言うまでもないことです。
しかし、本人の回復は、自分の課題から逃避するための被害者意識を捨てて、自分の姿を見つめることにあります。
何かと言い訳や批判のために浪費する時間はもったいないです。

確かに本当の課題に取り組むには、勇気と忍耐が必要です。
言い訳や批判をしている方が楽でしょう。
でも、その結果の違いはやがて歴然としたものとなるでしょう。

自らの本当の姿に向き合い、課題に本気で向き合おうとする時こそ、頼る
べき御方を知っている強みを経験するでしょう。

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お土産

2010-06-03 20:52:23 | ちょっと息抜き
妻がお土産で買ってきてくれたプリンジャムです。
今朝は、リッツにたっぷりのせて頂きました。
まずはビターから開けましたが、ビターとは言うものの、程良い甘さでおいしかった~
あっという間に終わりそうです。

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契約

2010-06-02 17:49:36 | 教会の風景
月報に掲載している礼拝説教のあらすじ(4・5月分)です。
現在は、旧約聖書の出エジプト記を続けて学んでいます。
神とイスラエルの関係を学ぶ中から、様々なことを教えられています。

 25:1で「主はモーセに告げて仰せられた」という記述以降、幕屋と幕屋で仕える祭司に関する規定が述べられてきた。それは、特に29:45,46で見たように、幕屋が主なる神の臨在の象徴であり、イスラエルの民にとって、主を知るための手がかりとなるためであった。そして、30:11で再び「主はモーセに仰せられた」という節が入る。その後、小刻みに同じような表現がくり返される(30:11,17,22,34;31:1,12)。補足的な事項の列挙の一つに、人口調査、登録の際に二十歳以上の男子全員が一律に納める半シェケルの贖い金の規定がある。神の民イスラエルの一員として登録されることにも、贖いが関係していることは興味深い。神は、それを『イスラエルのための記念として』行うべきとした。この贖い金の規定は、真理を示すのと幕屋の維持費を生み出すという役目を果たした。

 神は、モーセに告げた幕屋の建設という仕事のために、『協力者の備え』をしていた。主はべツァルエルとオホリアブの二人を指名した。べツァルエルは、この務めのために神の霊に満たされた。神の霊は、知恵(主の指示を実現するために必要なことを理解する)と英知(複雑な建造物の建設で不可避な問題を解決する)と知識(具体的な作業を進めるために必要な経験的知識)とを彼に備えていた。オホリアブは、べツァルエルの右腕としてサポートする役目に任じられた。幕屋や祭司の服装などは明確な数値や素材などの指示もあるものの、彼らの賜物が自由に発揮される余地も充分残されていた。モーセを通して与えられた設計の指示と、神の霊による彼らの賜物、そして、各自が役割をふさわしく果たすための責任と権限の所在、これらが適切に保たれる必要があった。教会においても、主は各自にそれぞれの奉仕と賜物と権限を与えておられる。私たちは、与えられた自らの奉仕と賜物と権限を理解し、主にふさわしく仕えていきたい。

 主がシナイ山でモーセに語ったことの締めくくりの部分。それは安息日の規定についてであった。すでに第四戒(20:8-11)で伝えられていたことだったが、ここで再確認されている。安息日の規定は、「代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし」(13)、「永遠の契約」(16)、「永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるし」(17)と告げられている。そのように、『しるしとしての安息日』は、創造主なる神とイスラエルの特別な関係を示すものである。
 
 イスラエルは、この規定を守ることで主を覚えることが期待されていた。「わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである」(13)その目的は、ここまで語られてきた幕屋と祭司の規定とも密接な関連がある。幕屋と祭司の存在は、イスラエルに視覚的に主の臨在を示すものであったはずである。そして、安息日の規定は、ライフスタイルの中で経験的に主の臨在を覚えることになったはずである。

また、安息日の規定は、神の創造の御業との関連で命じられていることにも注目したい。神は「七日目に休み、いこわれた」という表現をもって、人に安息日を命じている。つまり、命令という形式ではあるが、神はイスラエルに休息と憩いを宣言しているのである。神とイスラエルの関係を示すしるしとしての安息日が、労働や奉仕ではなく、むしろ休息と憩いであることを覚えたい。
確かに、私たちは主イエスによる新しい契約に生きる者であって、古い契約である律法に束縛されているわけではない。しかし、神の選びにより特別な関係に招き入れられているのであり、神のくださる休息と憩いを経験しているのである。それゆえに、共に召された兄弟姉妹と礼拝のために集まり、神の御前に静まることは、神の民の本来の姿としてふさわしいものであろう。

最後まで読んでくださってありがとうございました

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まもなく出番

2010-06-01 20:58:20 | 教会の風景
教会の庭先にいくつかの鉢植えを置いています。
その内のいくつかに、このようにテントウムシのさなぎ。
近々、羽化してアブラムシ退治に活躍してくれることでしょう。

さて、今日は礼拝説教の準備をしました。
昨年度から月に一度は新約聖書から説教しています。
テサロニケ人への手紙を終えたので、今度からコリント人への手紙から学ぶことにしました。
しっかりと福音に根差した交わり、教会の姿を求めていきたいと思います。

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