道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

クサイチゴ

2013年05月29日 | 随想
011  クサイチゴの実が散歩道で目に付くようになった。なかには、径2センチもありそうな完熟したものもあり、含むと軽い酸味と甘みが口中に拡がる。

小学生の頃、学校に隣接する浜松城本丸の天守台(お天守と呼んでいた)北面の山脚には、この木(クサと名が付いているが木です)が密生していて、実が熟れると休み時間によく採りに行ったことを憶えている。

かつてある学習塾が催したハイキングで、サブを頼まれ同行したことがあった。参加者は小学生クラスのこどもたちとその母親たち30人ほどのグループだった。 季節はちょうど今頃、一行は渓流を泳ぐ魚を見て歓声をあげ、マムシに遭遇して肝を冷やしたり、日頃あまり目にしない生物や光景に触れながら尾根道にさしかかった。道脇のいたるところにクサイチゴの実が成っていた。傍を歩いていたこども数人に、クサイチゴを食べてみるよう奨めた。何人かはおそるおそる未知の味に挑戦した。当事はもう野イチゴなど食べる子などいない時代になっていた。

ひとりが口にしようとした途端、「◯◯ちゃん!洗わないで食べちゃ駄目よ!」と、付き添いの母親の鋭い声が後ろから飛んだ。その子は口に入れる寸前だった赤い実を捨て、野生の果実の味を知るチャンスを失った。

大昔から昭和の高度成長期の頃までは、日本の子供は野遊びでキイチゴやクサイチゴ、そしてグミ、クワなどを見つけると洗うことなくそのまま食べるのが普通だった。生活文化が向上して、それを許さない世になったかと、嘆息するほかなかった。その子らの母親達は、生のものを洗わないで食べないよう教えられて育った、衛生観念の発達した世代だ。

現代は、食品衛生への関心が高まり、細菌や有害食品の知識が普及したことで、魚の刺身を除くと、洗ったものと火を通したものしか食べない時代になった。

天然の果実を洗わないで口にするのを禁ずる感覚は、その母親だけのものではない。多くの母親たちは、除菌滅菌に固執しながら、食品メーカー製の一見清浄な商品に含まれる防腐剤や保存料などの添加物・合成色素は、法に定められた用法を守っているからと問題にしない。TVのコマーシャルで誇張され繰り返し見せられる雑菌には敏感になっていたのだろう。

山野に自生しているものは汚く、スーパーで売られているものなら清浄という認識は、人類が野生動物と同じフィールドで気の遠くなるほどの長い時間を過ごしてきた事実を忘れている。どんなに文明が進み科学が高度になっても、人間はどこまでも自然的存在で、モノを洗って食べない哺乳動物と基本的には同類だ。洗浄とか除菌にこだわるのは、人間の身体が動物のそれと根本的に違っていると誤認しているところから始まる。

本当に体内に取り入れてよいものと、避けた方がよいものとを分別するのはごく簡単だ。私たちの先祖が口にしていたものは食べても良く、そうでないものはむやみに食べない方が良いと、長く食糧研究に携わっていたある農学博士が言っていた。

ジャンクフードを躊躇うことなく子供に食べさせておいて、昔から日本の子供たちがあたりまえに食べていた野山の果実を洗ってないからと食べさせないのは、現代人の偏りかもしれない。

それにつけても痛恨の極みは、2011年3月11日の福島第一原発の事故により、日本のかけがえのない自然環境が一変してしまったとだ。もうクサイチゴの果実は、洗ったところでこどもたちには食べさせられない。

植物がカリウムと誤って吸収するセシウム137やセシウム134を含んだ雨や塵は、今も恒常的に日本列島の全域に降り注いでいる。気流の動きは融通無碍だから、空間線量の値のように距離によって減衰するとは限らない。福島から遠く離れていても降る雨の線量が、原発の近くより高いこともあるだろう。

日本の野山が、縄文の昔から続いてきた山の恵みを採取する場でなくなったことは間違いないようだ。

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