道々の枝折

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歴史を学ぶ意味

2013年05月16日 | 随想
学校時代に歴史の授業に興味が持てなかったと云う人は多い。時系列でイベントが並び、事件の因果関係には踏み込まず単に事件の経緯、顛末、概要を説明するだけの教科書の記述は、いわば滔々とした時の流れに浮かぶ無数の事件を、時代ごとに抽出してした、ごく僅かの代表サンプルでしかない。

学生は、イベントの名称と当事者者の名前、そしてイベントが発生した年号を丸暗記することで試験をクリアする。面白くなくて当然だ。歴史を標題がついたイベントの羅列のようにしてしまったのは、学校の教科書が、世界やこの国で起こった無数の事件を、それぞれ一冊の教科書に収まるよう重要度によって選択し網羅したことに因る。

歴史の知識は、人間と社会を理解する上で欠くべからざるものだ。人が一生の間に出会う人の数は知れている。現実会える人の数に限りがあるなら、過去の人々を加え、その人々の言動と行為を史料から知ることで、人間理解を深めるのが妥当だろう。人のことは、過去から学ぶしかない。

歴史学というものは、文学、哲学とともに人間理解のうえで必須の学問である。人文学の三羽ガラスといっても好いのだろう。歴史は、人間に関心がないと興味が湧かない。従って理解も乏しいものになる。人間への飽くなき探究心が原動力であろう。

歴史的イベントは、時代の背景すなわち人文的背景と自然的背景の下に、政治的要因、経済的要因、宗教的要因、社会的要因、個人的要因、科学・技術的要因などが絡み合って生起する。これら各要因が事件に作用して結果に至る。この過程を文献史料や考古学的発見に基づき復元して、事実を確かめ因果関係を分析することで、私たちは、民族、時代を異にしていても、人間活動に普遍的な原理を知ることができる。

受動的に歴史の教育を受けることに意味は無い。寧ろそれは有害ですらある。歴史を自発的に学ぶことを欠いては、人間を詳しく知る道を閉ざすことになる。

専門家は別にして、歴史は学校で学ぶものではなく、学窓を去ってから、興味に応じて学ぶべきものなのかもしれない。過去の人間の辿った軌跡を知ることは、現代の社会生活における人間の行動原理を知ることに通じるのだから。

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