永禄11年(1568年)、岡崎に在った徳川家康は遠州に侵攻し、今川方の〈飯尾氏〉4代の居城〈引間城〉を攻め落とした。そして直ちに、その城地の西南数丁先の三方原台地斜面を活かし、新たに城郭を築造した。旧引馬城は新城の一角の曲輪となった。城が完成し家康が浜松に移ったのは、元亀元年(1570年)の頃といわれている。
今川義元亡き後、駿河・遠江に食指を伸ばす甲斐武田氏と直接対峙しなければならなくなった家康にとって、浜松城の築城は、緊急の課題だった。
当初の浜松城は、後の江戸期に改築されたイメージとはかけ離れた、空堀・土塁・柵門・望楼を備えるのみの、陣城に近い城砦だった。もちろん各曲輪の石垣(現存の石垣は、豊臣時代のものという)も本丸の天守台石垣も無かった。
大手門は城地の南東〈東海道〉に面し、搦手門は西北、台地を南北に走る〈金指道〉と浜名湖に向かう〈庄内道〉の分岐点〈名残〉に面していた。大手・搦手共に、遺構は遺っていない。
城地は南北500m東西450m。城の北端から500mほど北の台地東端から、東南方向に台地を切り裂くように狭い谷が天然の堀割のように延び、広い沼地に続いていた。谷は常には水が流れていなかった。
この谷の源頭の断崖は「犀ヶ崖」(さいががけ)と呼ばれ、深さは台地面から10m余り、ほとんど垂直に切れ落ちている。幹線道路に接しているので、今日では交通量が多く、車に乗っていると見過ごしてしまう。崖に隣接する〈犀ヶ崖資料館〉に駐車場がある。
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崖際の説明板。
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谷は今日でも当時のままに、深い林と藪で覆われている。
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谷底は歩けるようだが、未だに下り口が何処か知らない。言い伝えどおりなら、大勢が亡くなった鬼気迫る場所である。降りる人はいないのだろう。
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三方原合戦のあった夜、搦手の前面に展開し野営していた武田軍に対し、大久保忠世率いる徳川軍が夜襲をかけ、武田勢は夥しい死傷者を出したという言い伝えがある。多くは谷に落ちたらしい。
浜松城は、南から西にかけての表側が防御に脆弱な丘陵地形だが、北から東にかけての裏側は天然の要害と言える地形で、城としてはアンバランスで不完全な形だが、存外堅固だったろう。じっくり縄張りに取り組み、城郭造成に時間をかける余裕がなかったのは、それだけ武田氏の脅威が急迫していたことを想わせる。
三方原合戦の手痛い敗戦後、家康は城の弱点、搦手口の防備を強化するため、本多作左衛門重次に命じ、作左山と呼ばれていた小高地に曲輪を造らせ、重次の屋敷とした。その地は、藩制が終わるまで、作左山とも作左曲輪とも呼ばれた。
規模が5分の1にも満たない古城引馬城が、再三血腥い合戦を経験したことと較べると、築城以来一度も敵の攻城に遭わなかったのは、洵に稀有なことで、城にとっては幸運だったと思う。
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