浜松城の古城とも言える引馬城(曳馬城)の城主飯尾氏には、家康によって攻略された際の逸話が遺っている。
4代目城主〈飯尾豊前守連龍(乗竜とも)〉は、今川義元亡き後の今川領遠江の防備を能く務め、徳川・織田の攻撃や調略を防いでいたが、今川氏真に家康への内通を疑われ、駿府城内で謀殺された。
家康は5代目城主となった連龍(乗竜)の内室〈お田鶴の方〉に、徳川家への服属を勧めたが、お田鶴の方と家臣団は徳川に降ることを潔しとせず、城を死守して主従共々討死した。夫の無実を証明するには、それしかなかったのだろう。
家康は、妻同様今川氏の血を引くお田鶴の方を討ちたくはなかったと思う。
家康の正室〈築山御前〉は、母親同士が義姉妹だったお田鶴の方を憐れみ、城跡に塚を立て、椿100本を植えて慰霊したという。現在、跡地に〈椿姫観音〉が祀られている。
お田鶴の方はなかなかの女傑だったらしく、侍女と共に撃って出て討死したという。出撃前に薙刀の柄に滑り止めの粉白粉をはたいたという記述を見ると、武家の女性の薙刀使用の心得というか嗜みというものが感じられる。戦国ドラマの落城では、自決シーンばかりでなくこういう女性の戦闘参加のシーンも多く採り入れるべきだろう。考証家の研究が待たれる。
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