道々の枝折

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宇佐神宮伝4

2019年09月15日 | 歴史探索

【宇佐神宮の成り立ち】

その4 八幡大菩薩の顕現

1. 菩薩号の奉献

護法善神思想を背景に、神身離脱思想は徐々に発展する。神仏習合を先導したのは、八幡宇佐宮だった。
神が仏道修行する事で解脱を願う神身離脱思想は、神に菩薩の号を奉る考えを生む。奈良時代末期には、八幡大神への菩薩号の奉献が行われていた。この国では初めてのもので、注目に値する事象だったに違いない。

二つの不祥事の後の八幡宮寺(宇佐八幡神宮の神宮寺)は、失地を回復するために、より強力かつ具体的な大菩薩を顕現させることで、中央政権の国家運営に寄与しようとした。
神に菩薩号を奉献する風潮は、八幡神宮でなく八幡宮寺の側から生まれた可能性が高い。

菩薩という仏教的人格を付与することにより、神と仏の関係は明確になり、神仏習合はより発展した段階に移る。

2. 八幡大菩薩崇敬の拡大

814年、宇佐八幡神宮では第三殿を造り、応神天皇の母神功皇后(大帯姫)を祀った。この時に、第一殿に八幡大菩薩、第二殿に比売神、第三殿に大帯姫から成る、八幡神宮上宮三殿形式が整った。

八幡神宮では、810年から824年にかけて下宮三殿が造られ、更に若宮を造立して新たに四神(四所権現)を祀った。
託宣集によると、この四神は八幡大菩薩(応神天皇)の3皇子と1皇女に該るという。八幡神宮は応神一家の鎮まる宮となり、権威は更に増し、八幡大菩薩への信仰はますます広まっていった。

朝廷の八幡神宮に対する崇敬は篤く、光仁天皇以降文徳天皇の即位(850年)までの七代に亘り、天皇即位の都度朝廷から八幡神宮に報告使が派遣された。天皇即位には、八幡大菩薩の神威を借りる必要があったと見られている。

3. 石清水八幡宮の成立

859年、藤原北家の〈藤原良房〉は、その娘明子と文徳天皇の間に生まれた惟人親王(第4皇子)を、上位継承者にあたる3人の皇子をさし置き、清和天皇として即位させた。

この良房の強引な手法に反対する勢力を圧倒し、幼少の天皇を護り藤原北家の繁栄と安泰を祈るためには、八幡大菩薩の加護が必要不可欠だった。

そのため良房は、京都近郊に石清水八幡宮を造立し、860年代に八幡大菩薩を勧請する。こうして山城国に石清水八幡宮が成立した。都の近くに
所在する八幡宮は、天皇をはじめ貴族たちの崇敬篤く、八幡大菩薩は皇祖神として伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟に位置付けられた。

この八幡大菩薩の山城進出をもって、宇佐の八幡神宮の呼称は改まり、八幡宇佐宮または略して宇佐宮と呼ぶようになった。

4.  武家の守護神と成る

都近くに成立した石清水八幡宮は、朝廷・貴族をはじめ僧侶・武士・庶民に至る各層の崇敬を集め、急速に発展した。中でも、源氏の尊崇を得たことは、飛躍の一大転機となった。

河内源氏、源頼信は1046年、八幡大菩薩の加護を願い氏神とした。
頼信の子頼義は、前九年の役の後の1063年、ひそかに石清水の八幡大菩薩を鎌倉由比郷に勧請した。1180年、源氏の棟梁源頼朝は、由比郷の八幡宮を小林郷に移し、鶴岡八幡今宮若宮を造営する。

この今宮若宮は1191年、大火で消滅したが、頼朝はただちに後山中腹に本宮(上宮)を造立した上で改めて石清水八幡宮より八幡大菩薩を勧請し、鶴岡八幡宮を造営した。

源氏の氏神となった八幡大菩薩は武神として征夷大将軍頼朝以下全ての武士の尊崇を集め、鶴岡八幡宮は以後永く武士の精神的な支柱となった。

6. 八幡神登場の謎

古事記や日本書紀に記事の無い、すなわち土着の神では無かった外来の八幡神は、797年に完成した勅撰史書の「続日本紀」の記事の中に突如顕れる。736年に起こった新羅国無礼に関して朝廷が報告した先の諸神社の中に、その名が初めて記されたのだ。

続いて740年に対新羅政策に不満のあった太宰少弐藤原広嗣の乱の鎮圧の際に、朝廷が八幡神に祈願したことも記されている。この二つの正史記録によって、八幡神は歴史の表舞台に登場した。

八幡神登場の事情と発展についての詳細は明らかでないが、例によって素人の推測を許していただけるなら、次のように考えることができる。

宇佐に定着した秦氏(辛島氏)の、産銅(産金もあったと見る)や造瓦・造寺・灌漑土木などと、瀬戸内での海上輸送に伴う交易通商の発展によって蓄積された八幡宮の膨大な財力と精強な軍事的能力に、大和朝廷は720年の隼人征伐以来、重大な関心と期待を抱いていたのではないだろうか?

富は力の源泉である。戦費と兵員は潤沢であるほど戦さに有利である。信仰も戦闘力の強力な支えである。
大和朝廷は宇佐神宮に依存した。
そして、その依存の頂点であったのが、東大寺の大仏造立であったと理解したい。

八幡大菩薩は8世紀に忽然と国の正史に現れ、以後国政の重要局面において、国家(朝廷)に従い緊密に行動を共にした。その実績に対する為政者の評価は、時代が遷り石清水八幡宮や鶴岡八幡宮が造営された後も変わることはなかった。

八幡大神は皇大神として神威を保ち、宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として、全国7817社に及ぶ八幡神社・八幡宮の総元締として、今日も変わらぬ八幡信仰を集めている。


参考資料
①「八幡神と神仏習合」逵(つじ)日出典著 講談社現代新書
②「日本人の神入門」島田裕巳著 講談社現代新書



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