昭和生まれには昭和の世相が懐かしい。現下の令和の世相もその前の平成の世相も、私には馴染めないものが増えている。歌の文句ではないが、時々昭和にワープしたくなる。昔を懐かしむのは老人の弊習であるとは知りながら、訳もなく懐かしい。昭和の景物をピンタレストで見られるようになったのは、平成になってからのことだが、老人のノスタルジーを慰めるにこれほど卓れたサービスはない。
日本の古代では、土地や人民ばかりか時間までもが、天皇のものと考えられていた。したがって天皇の御代で時代を区切る伝統が定着した。これも中国人の非合理な考え方に倣ったものだろう。
元号で時間を区分する長い政治的慣習が、日本人を時代に嵌め込み分断させている。
大体政権というものは、その末期には悪政になるのが自然だ。リーダーが無能はもとより、有能であっても、同じ人が国家を運営することは必ず立ち行かなく成る。人間社会は自発的協力・奉仕的協調よりも、政治的協力・利己的協調で成り立っている。形式的協力は長続きしない。「権力は腐る」という言葉は、それを端的に示している。
したがって新政権というものは、人心収攬の為に刷新を強調する必要に迫られる。元号制定はこれに都合がよい。中国から学んだ政治手法だから、端から民の幸せを念頭において仕組まれたものではない。
凡そ中国から学んだものは、漢方薬以外はロクなものがない。断っておくが、私は中国の人々が嫌いな嫌中ではない。その歴史には関心が深いし尊敬している人も多数いる。まして文化に対しては、好き嫌いや批判の対象にならないことは承知している。それでも、永い中国との文化移入の歴史を通じて、好ましくない影響を受けた事実は、認めないわけにはいかない。
あの複雑な字体の漢字と書き順の為に、漢字圏の子どもたちの脳のメモリが、膨大な字体記憶に偏って占用され、創造力に使われるべきメモリの空き容量が不足する、と分析した東欧の学者がいた。アルファベットを組み合わせて語をつくる融通性と比較すると、説得力を感じてしまう。もし彼の説が正しいなら、中国・台湾・日本の子どもたちの創造性は漢字によって奪われているのかもしれない。漢字圏と非漢字圏の創造力の違いに、何となく思い至らないでもないでもない。私の脳内の記憶メモリも、長く漢字で埋められていたが、ワープロのお陰でかなり解放された。
中日が高い文化を保有しながら自前の近代化に到達できなかったのも、そこに遠因があったかもしれない。創造性の貧困は模倣性の優越に転嫁される。
閑話休題。今の人口構成で昭和生まれは約25%、四分の一ぐらいであろうか。平成生まれの人たちまでは、親たちの影響で昭和の残り香を嗅いでいる。人口の3割近くは、昭和の世相を懐かしむ心をもってくれているかもしれない。残り少ない時間だが、昭和の語り部であるしかない。
昭和と平成しか知らないのだから。
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