道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

ニェット

2012年10月10日 | 随想
旧ソ連時代に商社の仕事をしていたある日本人が、ソ連国営企業のロシア人幹部との交渉体験について述べた本を読んだことがある。
 

それによると、ロシア人は取引において、相手方のいかなる提案に対しも、先ずニェット(Нетいいえ=No)と答えるのを常としていたらしい。相手方の申し入れには、取り敢えず否定の回答を与える。そうすれば、相手方は改めて自分たちにより有利な提案をもってくる可能性があると考えてのことらしい。

いったん肯定したことを否定するのは、信義に反し相手を怒らせ信用を失わせる。普通はそれをしないのが交渉の基本と私たちは考える。しかし彼らは違う。拒否したことを後に撤回して合意するのは容易で、相手は安堵し、好感と感謝で応えるから、いつでも良い。肯定的な回答というものは、いつ与えても相手方に歓迎される性質のものだから、ロシア人は交渉事となると、取り敢えず否定の返事を与えるのを厭わない。他者との折衝事は、先ず非友好的な拒否から始めるというのが彼らの基本態度だと強調している。

建国以来、国家も国民個人も、異民族や異人種との間で幾多の困難な交渉を重ねてきた経験が、対手に甘い回答を与えることを許さない体質をつくりあげてきたのだろう。特に異人種異文化のモンゴル人によるキプチャク汗国専制時代の酷薄な圧政が、ロシア人に与えた影響の大きさを考慮しなければいけない。迂闊に承諾を与えたら、骨までしゃぶられる。交渉ごとは否定から始まる。

これと対照的なのが日本人だと著者は言う。私たちは一般に、申し入れや依頼を拒否することが苦手だ。断るのも断られるのも嫌だから、できるかぎりイエスの応酬で通したい。

聖徳太子が和をもって尊しと成すと定める以前から、日本人は和合・宥和の特性をもっていたらしい。端からにべもなく断るのは、日本人の本性、流儀に逆らうものだろう。

私たちは「前向きに検討する」と、相手に一縷の望みを抱かせる言葉を頻繁に発する。その結果、後から断るに窮して、あれこれと言い訳を探し内心忸怩たる思いに駆られながら実質的に前言を翻す。

そうは言っても、日本人にも直ちに断らねばならないこともある。その場合の私たちの社会でのより洗練?された対応の仕方は、明確に諾否を示さずに「考えておく」と、答えを先送りする。判断の先送りは日本人の常道だ。その上で、承諾したかったが諸般の事情でそれが無理だった、と婉曲に断る。決して聴いた途端に断ったりはしない。

相手方の気持ちを忖度するとともに、自分が相手に悪い印象を与えたり、不親切と思われたくないのだ。好い人でいたい願望(一種の見栄)が、ビジネスライクな事務処理にブレーキをかける例は、数多く見受けられる。

したがって私たちは、「考えておく」という言葉は「ノー」の意味だと、暗黙裡に諒解し合っている。意思をはっきり表明することになじまない日本人の心性が、きっぱり断ることを躊躇させるようだ。

以前石原慎太郎は「ノーと言えない日本」という題名の本を書いた。ノーと言えないのでなく「ノーと言いたくない」のが、わが民族の心性なのではないだろうか。この心性は、同胞同士ならともかく、異なる文化をもつ異民族・異人種と、交渉や取引をするうえで好い結果をもたらさないだろう。後から断れば前言を翻したと受け取られかねない。相手を思い遣る気持ちは、イエスかノーだけにしか関心が無い相手には、無用のものなのだが。

まだ若かった私はこの本を読んで、文化による発想の違いというものを痛感した。ノーと云うことは何ら道義に悖るものではないが、イエスと言った後に前言を翻すのは不義である。ロシア人はそこをよく理解しているのだろう。

自分が何かを申し入れるときには、相手のノーを予想してかかるのが本筋で、イエスを期待するのは、予測に甘えか傲りが入りこんでいる。以来私は、交渉事は須くノーから始まるものと心得、軽々しくイエスと言う人間は信用するに値しないと思うようになった。後で様々な言い訳や理由をつけて、結論としてノーと言うよりも、判断に迷ったら即座ににべもなく断る人のほうが、却って誠実で信用できる人である。

物事を真剣に考える真面目な人間は、軽々しくイエスと言わない。相手の言っていることが事実かどうか、確かめてみるまでは回答を留保せざるを得ない。それまで待てと言えば相手は焦れる。先ず断っておけば、相手は諦めて他との交渉を始めるから、待たせて焦らす気遣いもない。じっくり、納得がいくまで検討することができる。

自分がイエスと云う前に、相手が他者との取引に成功したり必要を満たしていたら、もともと縁がなかったと諦め、商機を逸したなどと悔やまない。自らの意思でノーと云ったのだから、全ては自分に責任がある。イエスが間に合わなかっただけのことなのだ。

私たち日本人は対人関係において、相手の心証を良くしようと計らい過ぎる傾向があるように思う。迎合というものだろう。臆病も多分にある。それが、耳障りのよい回答を与えたがる気持ちの源だろう。国家間の外交も究極的には人対人であって、私たちの文化の表出を避けられない。これが、日本人の外交下手の最大の要因であろう。

「無碍に断るのも」と云う言葉は、今はどうか知らないが、一昔前までは、私たちの社会で通用していた。これに対して、ロシア人はまさに無碍に断るらしい。隣接する多様な国家、民族との苛烈な交渉の歴史を通じて獲得された、処世の知恵ではないかと思われる。

彼らは日本人のように「前向きに検討する」などという言葉遣いをしない。そもそも日本人同士で常套的に使うこの言葉、同国人ならともかく、外国人に対して用いると、訳し方によっては誤解を招く極めて曖昧な表現だ。なるべく誤解を招かない用語を用いることが、外国との外交交渉での要諦だ。

交渉は断られたところからスタートする。北方領土問題など、その好個の例だろう。粘り強く時間をかけ交渉するしかないのだが、ニェットのロシア人との外交交渉では、こちらも相手方の提案には即座にと答えねばならない。戦術的に否定することの有用性を、彼らから学び活用する必要がある。それは必ず対中国外交にも、対韓、対北朝鮮外交にも資すると思うのだが・・・・・・。

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