考えることことは、粘土で塑像を作る作業に似ていないだろうか?
「思想の糸を紡ぐ」とは単なる美辞であって、実際はそんなものでは無いと思う。整然と思考が頭の中で縒り合わされ、思想として出て来るのでなく、粘土を用いてあちこち盛ったり削ったり捻ったりくっつけたり、いろいろ試して形づくる作業に似ているのではないだろうか。その意味で,彫刻家は思索的であると思う。
紡ぐように整然と文章を書き出すことができる人がもし居るとしたら、敬服の外はないが、多くの小説家の原稿を見るかぎり、書き直しや挿入・削除で原稿が判読不能なほどに雑然としているのが普通であるようだ。
読み書き話すことは、全て心奥から湧き出る発想を適宜掬い上げて、言葉に表しているように思う。様々な考えが泛かぶ発想力の豊かな人の文章は、原稿の手入れが多くなって当然だろう。発想豊かな教師の黒板は、頻繁に書き消しを繰り返していた。
書く人はおしなべて考える人で、発想のスピードには遅早の差があるものの、着実に書きながら想を進めていくのは変わらない。書き留めなければ思考は前へ進まない。
文字を書くことにも速い遅いの個人差があって、考えることと書くことの速度が一致している人は文書の仕事が速い人、まことに羨ましい。文章の内容は、速い遅いとは無関係だが。
頻繁にメモをとることは、記憶の援けとして、書く人には欠かせない作業だ。考えるヒントや手がかりでもある。
だが、メモを取りながら考えることはできない。人間の頭は、収集と発想を同時にはできない。
新聞記者は,現場で記事の骨格を念頭に置いてメモをとる必要があるだろう。論説、論文、小説などでは、メモはあくまで資料の一部であり、思考の緒(いとぐち)の役割がほとんどで、構成にまでは立ち入らないだろう。
兎にも角にも、考えたことは書いて何度も反芻(推敲)しなければ、確かな文章にはならない。歌謡ですら謡うだけでなく、詞を書き留めなければ、詩を理解するに至らない。和歌も俳句も、書くことなしには成立しない。
すなわち、口から出た言葉だけでは、考えたことにはならない。書いて初めて考えたことになる。書いてあるものは、思考の筋道を明らかにしているが、喋ったことは、後に自身でも筋道を辿るのは困難た。
つまり、語られたことは、どれほど斬新で含蓄に富むものであっても、考察の過程(書く作業)を経ていないので、所詮言いっぱなしの、取るに足らないものとなる。
満場の聴衆を感動させる演説でも、拍手鳴り止まぬ講演でも、機知とウイットでサロンを沸かせる談話でも、書いて考察の過程を経ないないものは、ある意味徒花である。
弁説の巧みな講演者、演説の巧い政治家、聴衆を感動させるアジテイターが必ずしも思慮深い人間でないこと,従って信を置くに値しないことが多いのは、以上の事情があるからである。
他方思慮深い人は、弁舌が奮わないことが多い。昔から、口舌の流暢な徒輩というものは、信頼するに足りないと相場がきまっている。
ヒトラーは演説の天才で、雄弁家だった。誰もがヒトラーの弁舌には感服した。
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