「類は友を呼ぶ」という言葉を聞くが、本当だろうか?人は同類の中から友を選ぶものだろうか?
似た者同士が寄ると、比較的早く親しくなれるのは、実際に体験しているところだが、友達になるかどうかというと疑問である。
人は自分と異質の者に興味をもつものであることも無視できない。私はどちらかと言えば同調性に缺け、自分と性質が似た人とは友人関係にならなかった。大勢のなかで、同類を見つけたことは嬉しいが、必ずしも友になりたいと願うことはなかった。
同類性・同調性を重視し合う集団には、同調圧力というものが存在する。異類・異質を評価し合う集団には、そのような圧力は生じにくい。
人の魂が相寄る為には、同質か異質かを問わない。それとは別の次元に、互いの魂が惹かれ合うものがあるのだろう。其処から芽生えた友情が、真物の友人関係を築かせるのではないだろうか?
交友関係を観れば、その人の気質はある程度分かるものである。同類との関係を重視する人は、生来寛容性に乏しい人であろう。異類の中から友を得ることがない人は、もっぱら同類との交友を求める。したがって、同類集団は自己増殖し続ける。異質集団にはそのような増殖能がない。
数の多寡で事が決まる社会や組織というものは、同質性を重視するが、それで正しい方向を指向できるかというと疑問である。異論を封殺する性質故に偏りを生じ、針路を誤ることが多い。それは歴史的にも証明されている。
「誰の友達にも成ろうとする者は、誰の友達にもなれない」という警句は、友誼の本質を突いている。
真の友ができないことをよく承知している人は、できるだけ多くの人と友誼を結ぶことに腐心する。友達の多寡に拘るのは、こどもの安泰を願う親や学校の価値観の刷り込み作用で、強迫観念に捉われているのかもしれない。
異類との交友が円滑に出来る人は、個性の多様性を理解し、友人の個性を尊重する闊達で寛容な人であろう。自分と他人との違いを友好の根拠にできるゆとりがあるに違いない。
「同質性の尊重」か?「異質性の評価」か?意見が分かれるところだろう。
前者は収束と団結に向かう。それによって集団の力を得る。後者は拡散と分離に向かう。それによって個人の自律を得る。結局、集中と分散、二大対立軸に行き着く。どちらが良いとか秀れているというものではない。人はどちらかに分かれるものである。
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