世の中がどう動いているのか?世相を知りたい時には、人は出来るだけ徒歩で街中を歩くのが好いだろう。
三木清という哲学者は「幸福は外に現れる」と云った。街行く人々の顔つきが、世相のインディケーターである。
クルマ(乗用車)に乗っていては、何ひとつ世の中の手がかりを得られない。洵にクルマというものは、人々を分け隔て引き離し、世相の実態を見誤らせる機械である。
渋滞で何10kmも車が連なろうと、大駐車場が何千台もの車で埋まろうと、クルマの中の人たちは互いに他の車や外界から遮断され、人間の集団では無くなる。それを観察しても、人からの情報は何ひとつ得られない。
クルマというカプセルの中に入ると、人は集団性を失う。一体感も連帯感も共感もない世界に入る。それはもはや社会的集団ではない。
クルマは機械文明の産んだ利器だが、単なる移動手段では無く、生身の人間感覚を喪失させる、魔性のカプセルでもある。
街歩きは、通行中の人々や仕事中の人々、そしてサービスや物品を求める人々など、都市空間にある人々の行動をランダムにサンプリングしていることでもある。直接インタビューしたり話しかけるのでなく、推察という想像力を駆使して観察するのである。
恣意的なサンプリング方法で、統計的な信頼性は低いと思われるだろうが、内閣支持率の作為的電話アンケートよりは、無作為性は保持されていると思う。其処から得られた世相認識は、存外信頼に足るものと信じている。
幕末に幕府の外国奉行を務めた川路聖謨(かわじとしあきら)は、徒歩を好んだという。
乗馬身分の高位の旗本でありながら、馬に乗らず駕籠に乗らず、徒歩で歩くことを好んだという。行政官として民情視察をするためというより、直接世間に触れることが好きだったのだと思う。単に観察が好きだっただけかも知れない。
彼が中風という病いに罹らず、健康を全うしていたら、徳川家の歴史の最終章は、少し違ったものになっていただろう。歴史にもしは無いが、勝海舟よりも川路聖謨に期待するのは、人柄の違いに拠るものである。
現代の高級官僚や政治家が、公用車で自宅や公邸から役所・官邸・事務所へ直行・直帰していては、世の中の波動は一切キャッチできないだろう。
岸田総理大臣の言動を聞く度に、民情に昏く国際社会の動きに疎い本質が伝わって来る。現実を的確に掴む眼というものを生来具えていないのではないか?
安倍政権の頃から、見切りの悪さ、決断力の乏しさを感じていたが・・・
優柔不断は、政治家にあってはならない素質である。
トヨタの2024年3月期の決算予想が、最高益(連結純利益)になると知ったから、こんなことを考えついたのではない・・・
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