道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

あの女性(ひと)は今

2022年05月22日 | 随想
男性と言うものは、こと異性に関しては洵にお目出度く出来ていているものらしい。まあそうでなければ、恋愛も結婚も成立しないのかもしれないが・・・

男性は一般に、かつて恋した女性のことを、いつまでも心配する弊習が概ね60歳あたりまで遺るものらしい。そこそこ成功したという自負のある人々に多く見受けられる。それをその女性に知って欲しいのかもしれない。洵に未練がましいというか潔くないというか・・・

「あの女性(ひと)は今どうしているだろう?」

どうともしていない。余計なお世話である。同じように齢をとって、子や孫に恵まれ、楽しく元気に暮らしている。
人は皆同じように生きて人並みの幸福を得るものである。数奇な人生など、滅多にあるものではない。その人や自分だけが特別ということは確率的に殆どない。
統計的な発想のできない人間というものは、極端な想像に振り回されるから困る。これほど滑稽なことはない。

幼いころから両親や祖父母に甘やかされて育てられ、自分ほどの男はいないと自惚れたまま、増上慢な大人に成り、好い齢をして恬として愧じない人がいる。自負心と自尊心があるから自分の不幸には気づかず、他人の不幸ばかりを気にしている。「人の不幸は蜜の味」と云う。

人の幸福を願えない人は気の毒である。「禍福は糾える縄の如し」という。幸不幸などというものは、神様が公平に分配するもので、それをどのように捉えるかは、自分自身に掛かってているのだが・・・

自分と別れた女性は皆不幸になるものと決めている莫迦な男のどれほど多いことか?
心配無用、99%は別れたおかげでより賢明で堅実な男性を夫とし、幸福に暮らしているのである。
幸福をターゲットにして努力して生きるのが人生だから、幸福になっていて当然である。

お目出度い男性と違って現実的な女性は、別れた男性のその後の幸不幸など、爪の先ほども考慮しない。彼の人生に自分がどれほどコミットしていたかなど考えたこともない。別れた男というものは、その途端に「路傍の石ころと化す」と、ある女性が言っていた。女性に通有の自己愛とは、そういうものだろう。相手が自分を好いてくれたから好きになったのである。元々は無数にある「路傍の石」の一つである。相手に自分への恋情がなければ元の石ころである。

女性も男性同様自負心では負けないから、自分を選ばなかった男とか、他の女に気を移した男など、ただの石ころなのである。感情が波立つのはほんのひと時。何の未練も感じないように出来ている。思い出したくも無いのである。
かつて熱くなったのは、何かの間違い、魔が差したとしか考えられないのが本音である。青春の過ちというものである。一緒にならなくて良かったと本心から思っているのである。

男も女も、若い頃には、添い遂げてみたかった異性の1人や2人はいるはずだ。運良く添い遂げたとしても、アラが見え始め、倦怠期を過ぎるころには、つくづく嫌になる。私の叔母は倦怠期の頃、朝起きた夫が台所に居る自分の傍に近寄ってくると「ゾッとした」と述懐していた。

子どもたちも「どうしてお父さんなんかと一緒になったの?」としつこく訊いてくる。間違いだったとは死んでも言えないから、誰にでも適用できる「誠実だった」の一点張りでお茶を濁す。

それでも夫は一所懸命働いて、自分と子どもたちを大切にしてくれた。どこに出しても恥ずかしくない夫である。たまたま若い頃出会った人間など、添い遂げようと添い遂げまいと、聊かも幸福を左右するものではない。現実に正しく応じていれば、神様は確実に幸福をもたらしてくれる。

人は皆、オシドリのカップルを羨む。彼らを夫婦の理想とする。そうは上手くいかない。
人は鳥類より高等動物である。見せかけならともかく、あれは本当の人間の夫婦の姿ではない。
仲の良い夫婦ほど喧嘩が絶えないものだ。半世紀もの間、飽きずに連れ合いの欠点や短所を論って猶幸福な夫婦というものが、この世には存在している。呆れるほかはない。



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