【宇佐神宮の成り立ち】
その1 神奈備(かんなび)の時代
1. 宇佐氏の勃興
宇佐における初期の信仰は、この地の豪族宇佐氏の「御許山(おもとやま)〈馬城嶺〉」の神体山信仰に始まるとされている。
宇佐氏は宇佐平野の中央を流れる駅館川(やっかんがわ)上流域(宇佐神宮から直線距離で約10kmほど南方の山地)の安心院(あじむ)盆地が本拠地で、始め盆地内の妻垣山(つまがきやま)を神体山として信仰していた。その後宇佐氏は勢力を拡大、周防灘に面した宇佐平野に進出し、この地域を領有支配する。
それに伴い、宇佐平野南方の御許山(おもとやま)の巨石信仰の祭祀を司るようになった。祭政一致の時代である。祭祀の場は御許山の北麓(現宇佐神社近傍)だったらしい。時代は3世紀の古墳時代と見られている。
2. 大和朝廷への服属
4世紀になると、宇佐氏は大和政権に帰順し、国造(くにのみやつこ)に任官した。その際、三女神が御許山に降臨したという神話が創られた。
日本書紀では、天照大神の産んだ三女神(比売神)は北九州宗像の地に降臨したことになっているが、書紀に、宇佐嶋(御許山)に降臨(山頂の3巨石がそれ)したという一説が神話としてある。大和朝廷との関係性を強める意図があったのだろう。以後宇佐氏は自然神から人格神(比売神)を奉斎するようになる。比売神は大和への服属の象徴であった。
3. 外来の民と神
その時代までの九州北部には、古くから先進の文化と技術をもった朝鮮半島の人たちの渡来が度々あった。土着の豪族たちは、自分たちより進んだ知識と技能をもったこの新羅系渡来人(秦氏)に親和的であったようだ。渡来人たちは、自分たちの神(新羅国の神)への信仰を伴っていた。
宇佐神宮の託宣(神託)集には、この外来神が「辛国の城に、始めて八旒の幡と天下って、吾は日本の神と成れり」と語ったとある。辛国とは韓(カラ)の国、城(シロ)とは領域のことで、幡(ハタ)とは仏教の祭祀具として用いられる上辺を支持して下に垂れるハタである。八流の幡(ハタ/バン)は〈八幡(ヤハタ)〉の名称の始原であろう。この託宣は、渡来系新羅人の豊国(とよのくに)での繁衍と、彼らが仏神と覚しい新羅の神を信仰していたことを、宇佐神宮が認識していた証しと考えられている。
この新羅の神は、当時未だ日本に伝わっていなかった仏教と呪術的な側面をもつ道教とが融合した神だったと推察されている。すなわち、日本の土着の神々(国つ神)とは異質の神ということである。この神はやがて土着神祇の神体山信仰に倣い、定着地の山体〈香春岳三ノ岳〉に祀られるようになった。
4. 香春岳の銅鉱石
〈香春岳〉は3峰から成り、三ノ岳は銅鉱を産する。そもそも香春に定住した秦氏の集団は、銅の採鉱と精錬を生業とする集団で、銅鉱を求めてその地に入ったと思われる。三ノ岳は良質の銅鉱を産出した。
5世紀前半に来住した秦氏の一族は、銅鉱の採掘と精錬と共に造寺・造瓦の技術をもつ卓れた技術・技能集団であったようだ。
銅の精錬は副次的に金を産む。この地の渡来人(秦氏)たちが大きな富を蓄積していったことは間違いないだろう。
後の8世紀頃の「豊前風土記逸文」には、「昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来(きた)りてこの川原にすみき、すなわち名を鹿春の神といひき」と 、新羅の神がその地に降臨(実際は勧請)したことが記載されているという。これは新羅国の神を奉祀した事実を伝える唯一の文献史料といわれている。
5. 秦氏の東進と発展
この渡来系新羅人(秦氏)たちは5世紀の半ば頃、周防灘沿岸に向け東進を開始した。各地域に秦氏の居住地(辛国と呼んだ)を形成し、次第に居住範囲を拡大していった。7世紀のはじめに来朝して筑紫に上陸した唐の使節・裴世清(はいせいせい)は、筑紫国の東に、当時秦王国とも言うべき秦氏繁栄の地域があったと本国に報告している。
新羅系渡来人たちは産銅の本拠香春の地を放棄したのではなく、周防灘に面する湊を求めて発展的に移動したと推察される。銅の生産量が増え、畿内での需要が拡大する中で、従来の北九州沿岸の湊から響灘を経て関門海峡を通峡する航路の危険を避け、畿内へ瀬戸内海を直航する輸送ルートが選ばれたものと見る。
渡来人の東進は、在地勢力と親和しながら歳月をかけての漸進だったと推測される。秦氏は井堰の構築など治水・灌漑の土木技術にも長じていたから、各地の土着豪族や農民からは歓迎されたに違いない。
渡来系新羅人(秦氏)の集団は、5世紀の末ごろには山国川(現中津市、筑豊国境)を越え、沖代平野(現中津平野)に展開、この地で繁栄する。彼らの一部は、5世紀の末頃に宇佐平野に到達し、秦氏の移動は終了する。宇佐に到達した秦氏の集団は、辛嶋氏と名乗っていた。
6. 辛島氏の宇佐定着と宇佐氏の没落
宇佐平野はもともと在地の豪族宇佐氏の支配地域であったから、新来の辛嶋氏と宇佐氏との間に紛争が生じたことはあっただろう。しかし、一般に渡来人に親和的な豊国の豪族の一員だった宇佐氏は、辛嶋氏と事を構えることはなく、むしろ積極的に利用し融和する立場だったと見られる。
結局、あらゆる先進技術と経済力で地域に貢献し、存在意義が高かった辛嶋氏は、宇佐の〈駅館川〉西岸に定着、東岸を居住域とする宇佐氏に倣い、自分たちが伴って来た新羅の神を、近くの〈宇豆高嶋(うずたかしま)(現在の稲積山)〉という山に降臨(勧請)させ奉斎する。更に辛嶋氏は宇佐氏の御許山信仰をも吸収し、辛嶋氏の奉ずる神は〈宇豆高嶋〉から〈御許山〉に遷った。
この渡来系新羅人(秦氏)たちは5世紀の半ば頃、周防灘沿岸に向け東進を開始した。各地域に秦氏の居住地(辛国と呼んだ)を形成し、次第に居住範囲を拡大していった。7世紀のはじめに来朝して筑紫に上陸した唐の使節・裴世清(はいせいせい)は、筑紫国の東に、当時秦王国とも言うべき秦氏繁栄の地域があったと本国に報告している。
新羅系渡来人たちは産銅の本拠香春の地を放棄したのではなく、周防灘に面する湊を求めて発展的に移動したと推察される。銅の生産量が増え、畿内での需要が拡大する中で、従来の北九州沿岸の湊から響灘を経て関門海峡を通峡する航路の危険を避け、畿内へ瀬戸内海を直航する輸送ルートが選ばれたものと見る。
渡来人の東進は、在地勢力と親和しながら歳月をかけての漸進だったと推測される。秦氏は井堰の構築など治水・灌漑の土木技術にも長じていたから、各地の土着豪族や農民からは歓迎されたに違いない。
渡来系新羅人(秦氏)の集団は、5世紀の末ごろには山国川(現中津市、筑豊国境)を越え、沖代平野(現中津平野)に展開、この地で繁栄する。彼らの一部は、5世紀の末頃に宇佐平野に到達し、秦氏の移動は終了する。宇佐に到達した秦氏の集団は、辛嶋氏と名乗っていた。
6. 辛島氏の宇佐定着と宇佐氏の没落
宇佐平野はもともと在地の豪族宇佐氏の支配地域であったから、新来の辛嶋氏と宇佐氏との間に紛争が生じたことはあっただろう。しかし、一般に渡来人に親和的な豊国の豪族の一員だった宇佐氏は、辛嶋氏と事を構えることはなく、むしろ積極的に利用し融和する立場だったと見られる。
結局、あらゆる先進技術と経済力で地域に貢献し、存在意義が高かった辛嶋氏は、宇佐の〈駅館川〉西岸に定着、東岸を居住域とする宇佐氏に倣い、自分たちが伴って来た新羅の神を、近くの〈宇豆高嶋(うずたかしま)(現在の稲積山)〉という山に降臨(勧請)させ奉斎する。更に辛嶋氏は宇佐氏の御許山信仰をも吸収し、辛嶋氏の奉ずる神は〈宇豆高嶋〉から〈御許山〉に遷った。
以後両氏は、それぞれの神への祭祀を御許山で共にするようになった。それだけの力(財力、技術力、呪術力)が辛嶋氏にあったと見て良いだろう。
7. 宇佐氏の没落
宇佐氏は6世紀半ば頃までに衰退する。527年に起きた筑紫国造磐井の乱において、宇佐氏が磐井方に与して敗れたことが、急速な衰退の理由と見られている。
8. 大和の名族大神氏の宇佐進出
6世紀後半、宇佐氏が駅館川上流域(宇佐氏発祥の地)に去ると、大神氏という〈大和三輪神社〉と関わりが深い畿内の名族が、宇佐氏の支配地だった駅館川東岸に来住する。
大神氏は駅館川を挟んで東の旧宇佐氏の領域に、辛嶋氏は西の領域に分かれて住み、両氏は共存した。辛嶋氏が新来の大神氏にかなりの抵抗をしたことは想像するに難くない。
これは素人の私見だが、大和政権は磐井の乱の鎮圧を通じて、辛嶋氏をはじめとする秦氏の財力と、彼らの奉ずる神の呪術力(呪毉)に強い関心を抱いたと見る。大神氏が大和政権の強い意向により、宇佐氏に替わって来住したことは間違いないだろう。
7. 宇佐氏の没落
宇佐氏は6世紀半ば頃までに衰退する。527年に起きた筑紫国造磐井の乱において、宇佐氏が磐井方に与して敗れたことが、急速な衰退の理由と見られている。
8. 大和の名族大神氏の宇佐進出
6世紀後半、宇佐氏が駅館川上流域(宇佐氏発祥の地)に去ると、大神氏という〈大和三輪神社〉と関わりが深い畿内の名族が、宇佐氏の支配地だった駅館川東岸に来住する。
大神氏は駅館川を挟んで東の旧宇佐氏の領域に、辛嶋氏は西の領域に分かれて住み、両氏は共存した。辛嶋氏が新来の大神氏にかなりの抵抗をしたことは想像するに難くない。
これは素人の私見だが、大和政権は磐井の乱の鎮圧を通じて、辛嶋氏をはじめとする秦氏の財力と、彼らの奉ずる神の呪術力(呪毉)に強い関心を抱いたと見る。大神氏が大和政権の強い意向により、宇佐氏に替わって来住したことは間違いないだろう。
参考資料
①「八幡神と神仏習合」逵(つじ)日出典著 講談社現代新書
②「日本人の神入門」島田裕巳著 講談社現代新書
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