道々の枝折

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宇佐神宮伝2

2019年09月12日 | 歴史探索


【宇佐神宮の成り立ち】

その2 八幡神の成立

1. 八幡神の顕現

度重なる抗争の挙句、辛嶋氏は大神氏に屈服する。大神氏は御許山信仰の祭神に「応神天皇」の霊を付加して社殿を創建し、辛嶋氏と共同して宇佐神宮の祭祀をすることになった。

この次第により、7世紀末の宇佐神宮に、応神霊新羅神の習合した八幡神が成立する。宇佐神宮の三柱の祭神のうちの二柱、〈応神天皇〉と〈神功皇后〉の母子の奉斎には、大和朝廷の対新羅調伏の意図が窺える。大神氏は、宇佐神宮の神威(実態は経済力、軍事力、呪術力)を新羅に及ぼす役割を帯び、朝廷から宇佐神宮に派遣された監督とも思える。

残る1柱の〈比売神命(三女神)〉は、当初宇佐氏が大和王権に服した際に創祀され奉斎されていたものである。宇佐氏は衰退して一族発祥の地に陋居したものの、原始御許山信仰祭祀実権の要所〈三角池〉の池守という要職を世襲独占していた。

対隼人戦での八幡神の活躍は、神護ばかりか実戦においても顕著なものがあったらしい。宇佐一族の、復権を目指す奮闘が想像される。

この時の、八幡神の神輿に載せる御験(みしるし)の薦枕(こもまくら)という神具の絶対性が、衰微していた宇佐一族に復活の機会を与えたと見ることができる。

2. 八幡神の活躍と発展

その後八幡神は驚異的な発展を遂げる。
先ず始めは719年、日向・大隅の隼人が反乱を起こした際に、八幡神は託宣を発して率先隼人征伐の大和朝廷軍に合力し、記録に残る戦功を挙げた。

3. 宇佐氏が管掌した謎の神具

宇佐氏は6世紀後半に〈駅館川〉の上流奥地に逼塞していたが、原初より御許山神体山信仰の核心地であった〈三角池の池守〉の職(宇佐公池守)を維持し続けていた。

八幡神の神輿に載せる御験(みしるし)には、三角池(まこも)で編んだ神の御枕が絶対に必要な神具であり、それは宇佐公池守が作るものでなければならなかった。

4. 宇佐氏の復権と神宮への褒賞

隼人討伐での宇佐神宮の働きは、大和政権の大いに認めるところとなり、宇佐氏は復活、神宮は褒賞に預かる。この宇佐氏の復活には、宇佐氏一族出身の〈法蓮〉という修験修行者(霊山英彦山での修行が知られている)の活躍が大いに寄与したと考えられている。

宇佐神宮はその後、宇佐氏・辛嶋氏・大神氏の三者で神職団を形成し、職務分担して神を奉斎することになった。

5. 八幡神の国史登場

737年、宇佐八幡宮は正史のひとつ「続日本紀」に登場する。新羅との間に緊張が高まり、朝廷が幣帛を奉って新羅の無礼を報告した国内の有力神社の中に、宇佐神宮の名が突然表れた。八幡神は忽然と日本の歴史に姿を現したのだ。朝廷の恃むところが大きくなった証拠である。

続いて740年、〈大宰少弐藤原広嗣〉が反乱を起こし、朝廷は八幡神に戦勝を祈願して広嗣を討つ。祈願というと聞こえがよいが、神宮の支援を求めたと見ることができる。神宮側からは隼人征討の時と同様、実戦部隊の提供もあったと想像される。これは八幡神が後に武神に目される濫觴であろうか?乱の鎮圧後、朝廷から宇佐神宮に多大な寄進があった。

6. 聖武朝の国家的大事業「大仏造立」

次に宇佐神宮を歴史の表舞台に引き出し躍進させることになったのは、〈聖武天皇〉による大仏造営の大事業だった。

743年、仏教に信仰篤い聖武天皇は、大仏造立の詔を発した。しかしこの工事は、着工後4年を経ても捗々しく進まなかった。当時の東アジアではまったく経験のない巨大な銅像の鋳造工事、それも莫大な経費と資材・技術力・労働力を要する大事業である。全てにわたって、大和政権には能力が不足していたに違いない。

7. 大仏造立の成就祈願の要請

747年、ついに朝廷は宇佐神宮に遣いして八幡神に大仏造立の成就を祈願させた。というと聞こえは良いが、全面的かつ実質的な協力支援を神宮に、すなわち大神氏・辛嶋氏・宇佐氏の三神職に要請したという事だろう。

8. 総力投入による八幡神の支援

八幡神は託宣を発し、大仏造立に全面的に協力する。つまり宇佐神宮の総力を挙げて大仏造立を支援した。主資材の銅の供給はもとより、造炉・鋳造の技術者、研磨・鍍金の技術者や工匠たちを派遣、人夫(のべ200万人と推定される)の一部を供出し、現代の貨幣価値で4600億円にものぼる費用の相当部分を負担したものと思われる。実際、当時の東アジアの先進地、唐や半島の百済、新羅にも例のない巨大銅像の鋳造は、当時の日本においては、豊前国の新羅系渡来人秦氏の資材・知識・技術・技能・資金によってのみ可能であったに違いない。それをもってしても、想像を絶する難工事であったことが記録に遺っている。748年、漸く銅像の本体は完成する。

9. 鍍金用金の不足と陸奥国司の金の
献上

ここでまた朝廷に問題が発生する。銅像の表面に施す鍍金用の金が不足していたのだ。聖武朝廷の財力が乏しかったということだろうか?天皇は唐に応援を要請して金を入手しようと画策する。

ところがタイムリーに、陸奥国から金が政権に献上された。陸奥守だった〈帰化百済王族の敬福〉が金を朝廷に献上した。その量は900両=33.75kgといわれる。

大仏造立は、上古の日本の壮大なドラマだった。
宇佐神宮は、朝廷の大仏造営の苦境を一貫して援け続け、大仏は漸く完成する。以後朝廷の神宮に対する評価は絶大なものとなり、宇佐八幡神宮は朝廷に対して大きな影響力をもつことになった。


参考資料
①「八幡神と神仏習合」逵(つじ)日出典著 講談社現代新書
②「日本人の神入門」島田裕巳著 講談社現代新書

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