トルストイはその名著「戦争と平和」の中で、戦場での勝敗を決めるものは、指揮する将官の力量でなく、軍隊の圧倒的多数の兵士や下士官たちの、臨機応変の闘いぶりに懸かっていることを、ロシアの名将クトォーゾフの述懐の形で強調している。
戦場での功をひとりの将に帰す考え方を認めないのは、開明的な貴族、トルストイの真骨頂だが、我々には「一将功成って万骨枯る」という中国流の固定観念が染み付き、兵卒の活躍は戦局を決定させるものでなく、将の采配の結果と考えられてきた。赫赫たる戦果は、全て指揮官の功績になった。戦果は司令部が独占するものだった。累々たる死傷者の前線と、勝っても負けても無傷の司令部の対比映像ほど、戦争の本質を示すものはない。
古今東西、戦争の勝利は勝者側の将官たちの功績であり、位階昇進、賞典、栄誉の好機、爵禄への唯一の方途だった。
無名の兵士たちの個々の奮闘の結果が集合され、最終的に軍団の勝敗が決まる事実は軽視され、ギリシャ、ローマ以来の戦史の記録は、名将勇将で彩られている。
だがそれは、二度の世界大戦あたりまでのもので、未来にまで繋がる図式ではなさそうだ。近未来の戦争では、そうはいかないだろう。作戦計画も指揮も、AIへの依存度が高まる一方で、個人的な智能の関与度合いは低くなるばかりだ。勝因を単純に属人的要素の作戦計画や指揮に帰すことができなくなっている。
大陸間弾道弾、巡航ミサイル、ステルス爆撃機、の発達進化は、戦争から前線と司令部の古典的な位置関係を根底から変えてしまった。今日の戦争では、主力を前線に集結して後方の司令部の指揮で決戦を行うことはできない。兵力の一点集中は、全滅の危機を免れない。
殺戮兵器の飛躍的な発達は、兵力を分散させなければ、一時に膨大な兵員(ロボット兵士を含む)を損失する危険性を飛躍的に増大させた。したがって、将来の戦争では、長大な戦線が敷かれることは無いだろう。すなわち、敵味方が最前線で対峙し、その間が戦場となる戦い方は、イラク戦争までのものだったのではないか。既に至る所で小規模な戦線が発生し、あらゆる地点が戦場になっている。テロはその最たるものだろう。
無数の衛星が機能している宇宙空間から見れば、司令部が戦地の真っ只中に在る状態と言っても過言ではない。米国の宇宙軍創設は、戦争の様相の根本的な変化に対応するものだろう。
AI時代の戦争は、敵性国家の統合軍事システムの破壊に主眼が置かれる。既にサイバー戦争は始まっていて、我々市民には知りようがないが、日夜見えない火花を散らしているのだろう。弾丸の飛び交わない、ハッカー部隊の密かで不気味な攻防が繰り広げられているに違いない。国家のシステムは、絶対に守らなければならない。気の休まるときのないせめぎ合いが続く。兵器の優劣よりも、サイバー能力の優劣が、勝敗の帰趨を決める時代に入ったという事だろう。
司令部が真っ先に、地球の反対側や宇宙から集中攻撃を受ける可能性がある現代、凡ゆる国家にとって、旧来の戦争で事を解決する選択肢は消滅しつつある。兵力の分散配備は、先制攻撃に対する報復攻撃の可能性を維持するものだ。戦端を偶発させない知恵が、どこの国にも求められるだろう。
結局、世界の国々は、鞘から刀を抜いたらお終いの関係にある。当事国のどちらにも勝利はない。大国と雖も、半永久的に刀を抜けなくなっているのではないか?
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