道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

視界

2017年07月24日 | 随想

人は見えている世界、視界が全てであり現実である。

我々の生活は、様々な視界の連続で成り立っている。朝起きてから寝るまで、人は目まぐるしく視点を変え、視座を移しながら行動する。

自宅の食卓から眺める庭、住宅の佇まい、駅のプラットホーム、電車の窓からの景色、会社のデスクから見るフロア。日々無意識のうちに視界から無数の情報を得、印象を受けている。

毎日目にする視界はその人の脳内で記録更新を繰り返し、過去の記録データとの照合が無意識のうちに繰り返されている。

視界の照合によって、我々は安定した生活を保つことが出来る。視界の連続性が、生活の基礎である。大人も子供も、人それぞれの視界こそ、自分の世界である。

旅に出ると、それまでの日常とは視界が一変する。それは精神に刺激を与え、開放感を招く。だが一方で漠たる不安を呼び起こす。日々眺め暮らしていた視界とは異なる視界の中に居るからだ。そのため、心は解放され自由になるが、反面安定が得られない。

旅を終え、馴れた視界に触れると、ホッとして心が安定を取り戻す。人が心の安定を保つには、見慣れた視界が必要であることを識る。

病院は患者の治療上必要を認めると入院させる。途端に患者は見慣れた視界を失う。病に対する不安と、見慣れない視界に取り囲まれて生ずる不安は、患者に大きなストレスを与えるだろう。

若い人は好奇心に満ちていて、常に新たな視界を求めるが、老人に新たな視界は不安の因になり、身の毒である。視界の照合が一致しないからだ。老人は、古くても見慣れた視界の中に身を置いている時が、最もcozycomfatableであるように思う。

その点で、戦争で灰燼に帰したことのあるこの国の都会は、新しい建物を建てることに狎れ、景観を変えることをいささかも躊躇わない。ハコモノづくりで新奇を競う習慣が身についてしまった。視界の連続、安定などを全く無視している。都会が殺伐として見えるのは、ただひとつこの理由による。

欧米の都市のように景観が永く保全されていたり復元に熱心なところでは、老人は精神に好適な景観の中に身を置いているように見える。

これから老人人口がますます増える日本では、介護施設の拡充もさることながら、景観の復元と保全が、老人の心の安定のために必要になるように思う。高齢の身を、見慣れない視界の中に置くのは、避けた方が良い。


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