道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

鹿児島行

2024年06月20日 | 旅・行楽
静岡空港から小型旅客機に乗り、鹿児島空港ヘ降りた。15年も前に開港した県内唯一の空港発便を初めて利用したのだから、飛行機嫌いというか時代遅れも甚だしい。高所と閉所、両方嫌いだから仕様がない。10前九州に来た時のアクセスは新幹線で、小倉で降り、大分・宮崎を経由して鹿児島に入った。
 
今回は同行した娘夫婦が航空機・宿・レンタカーを全てセットしてくれた2泊3日の5人旅、重い腰を上げ苦手な飛行機に乗ったのには、内緒にしていたが、老生にやむにやまれぬ事情があった。

先般、当ブログで負傷と快復の経緯をお知らせした腰の損傷が完治していなかったらしく、その後にしなくてよい肉体労働を小半日やったために、痛みが再発していた。痛みは前より強い。
霧島と指宿に宿泊すると聴いて、温泉と砂むし温泉併用の湯治効果に期待した老生、一も二もなく率先参加を決めたのだった。

霧島温泉郷から薩南を巡る3日間、日頃観たことのない火山地形の景観を楽しみながらの走行、鹿児島県は竹林面積が日本一だそうだが、たしかに山地の沿道には竹林が目立つ。
行路のそこかしこにアジサイ・ツツジ・カノコユリ・ハマユウなど自生の花々が咲いていて、目を楽しませてくれる。この季節でも、南九州の海岸ではツワブキが咲くことを初めて知った。寒暖差が大きくない南国では、年中咲くのだろうか?

桜島は今回も姿を見せてくれなかったが、島に渡って火山岩(安山岩?)に触れた老生は大満足だった。


乗ったり降りたりの繰り返しによる適度な運動と宿での温泉浴は、確かに効果が感じられた。特に砂むし温泉は卓効があった。

薩摩と言えば、歴史好きの老生は島津氏700年の歴史に関心が向かう。
「島津に暗君なし」の謎は、陋考の好課題である。
鹿児島の地政的・民族的要素、つまり自然と人文とが織り成した島津氏と薩摩の歴史には、大いに惹かれるものがある。

島津家は、今からおよそ800年ほど前、源頼朝から島津荘の下司職・地頭職を与えられた惟宗忠久が荘名の島津を姓としたことに始まると伝わる。以後4代まで、歴代当主は鎌倉に在ったが、5代貞久以降から在地の領主となった。初代忠久以前は、京において朝廷や摂関家に仕えていたらしい。
北条時政と共に、頼朝の庇護者の一方だった比企一族の縁に繋がる忠久は、頼朝が鎌倉に幕府を開くと重用され、南九州に広がる広大な島津荘の地頭職に就いた。さらに忠久は、薩摩・大隅・日向の守護職を与えられるまでに発展したが、これは偏に頼朝の信頼が忠久に篤かったことを物語る。
頼朝没後には、北条氏と比企氏他の権力闘争起こり、比企能員の「比企の乱」に連座したということで、島津氏は薩摩・大隈・日向を失った。

島津氏が薩摩・大隅・日向の守護に返り咲くのは、元寇での戦功による。このあたりから、島津氏の武勇が世に知られるようになる。なぜ島津氏が武門の雄となり得たのか、そこを考えてみたい。

有史以前に薩摩半島と大隅半島に土着していた人々は、南西諸島の人々と近縁の人々だったと見て間違いないだろう。淳良で勇敢な気質に富む不羈剽悍な人々であったと想像する。彼らは、後の時代に中央の為政者大和王権に隼人と呼ばれた人々の先祖である。隼人は美称でなく、大和王権にまつろわぬ民への蔑称だった。その隼人も、大伴旅人の遠征により、中央集権の大和王朝に帰順する。

島津家が軍事で頭角を表した最も大きい要素は、歴代領主島津一族の血脈よりも、隼人と呼ばれた剽悍無比な土着民の気質・体質にあったことは間違いないだろう。彼らの兵士としての卓越した能力は、常に戦場で存分に発揮されたことだろう。
つまり、薩摩人の戦士として勝れた性能の基盤の上に、頼朝に重用された島津忠久という優れた頭領を戴いたことが、島津氏700年の隆盛を招いた素因と見る。
戦国期には大友氏との攻防があり、豊臣秀吉の九州征伐があった。艱難は他の戦国大名に劣らないが、苦境をよく切り拓いた知謀抜群の島津の血筋には、誰も疑念を挟めないだろう。
さしもの太閤秀吉も、島津家を取り潰せなかったことは特筆に値する。

関ヶ原の合戦では、島津義弘の「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破が歴史に名高い。それが、緻密な作戦計画に基づく戦線離脱だったのか、戦況悪化の中での死中に活を求める臨機の判断だったのかは、検証の仕様もない。しかし、徳川家康及び彼の幕僚たちの心胆を寒からしめたであろうことは、想像するに難くない。

徳川の時代、江戸の町民から「薩摩っぽ」と軽侮されていた薩摩武士は、明治維新後、薩摩士族としてその多くが東京に進出、政治に経済に、産業に学術に、軍隊・警察に、活躍の場を広げていった。

明治維新は薩摩藩と長州藩の二大雄藩の合力あって実現したクーデターである。陽と陰、風土と住民の気質・体質の対照的な両勢力の実力によって成し遂げられた明治維新、結果は吉だったのか凶だったのか?
この世のことは吉凶表裏、日本の近代史を回顧すると、軽々に結論は下せない。
















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