人の一生は、大河を泳いで渡るようなものである。大河の流れに逆らうことはできない。水に入った時は対岸の目標地点の景色を目に焼き付けたはずだが、いったん泳ぎ始めると、前に進んでいるようでいて下流に流され続け、漸く対岸に着いて岸に上がってみれば、夢想もしなかった景観の場所、呆然として立ち竦む。それが老年というものである。
たじろいでも嘆いても仕方がない。やり直しは効かない。情況に甘んずるしかないのである。
泳ぎ出す前に見た目標の景色は幻だったのか?と我が目を疑う。幻ではない。観たのは実景である。ただ、景色の違うところまで、遠く流されてしまったのである。迂闊にも河の流れの力を読めなかっただけのことである。
洵に人生は大河を渡るに似ている。かつて目前に見た対岸に着くには、常に上流に向かって泳ぎ続けていなければならない。流れに逆らうのだから、泳いでいる間中、気力・体力共が充実していなければ到底叶わないことである。誰にでも真似のできることではない。
とてもそんなことは自分に無理だと、初めから流れに身を任せ、無理せず泳ぐ人もいる。水中では浮いていることが何よりも肝腎だと心得、体力を浪費しない。対岸近くになって、好さそうな場所を選び泳ぎ着ければ重畳と心得ている。最初の目標にこだわらないのだろう。
これで存外、好ポイントに着くことがあるから人生は面白い。運が半分、努力が半分の世の中である。
自分の狭い視野の中にある景色を目標に定めても、人はその場に泳ぎ着けない。人生という大河の流れは、その人の泳力だけで泳ぎ切るのは難しい。企んでも計らっても、期待どおりの場に泳ぎ着くことは至難の業である。
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