♪泣けた泣けた、こらえきれずに泣けたっけ・・・・・♪
春日八郎の唄う「別れの一本杉」(高野公男:作詞 船村徹:作曲) の歌詞を覚えている人は、まだ国の人口の3分の1ぐらいは居るだろうか。
日本が高度経済成長の軌道に乗る直前の、昭和30年にリリースされたこの歌謡曲は時代をとらえ、人々の共感を得て大ヒットした。人の別れに泪はつきものだが、当時のそれは半端でなかった。駅、港、空港の至るところで、人々は手を取り合って泣いていた。それほど、別れとは辛いものだったのだ。
その頃までの別れの泪の量は、地理的・時間的距離の隔たりに対応していたように思う。互いを隔てる距離を実感し、再び会う機会の稀なことを予想して、人は泪を流した。これが今生の別れになるかも知れないという想いが泪を誘う。江戸時代の旅立ちで水杯を酌み交わしたのも、永の別れを予感するからだった。
これに対して、近くに暮らす友人・家族・恋人と別れるときに泣く者はいない。近い将来の再会を確信できるとき、泪は無用だ。
交通手段と情報手段が高度に発達し、高速の交通網と通信網が全世界に張り巡らされた今日、我々は以前よりも人との別れを悲しまないようになったようだ。
地理的には遠くても、利用する交通手段によっては短時間で会うことができる。現代は地理的距離と時間的距離が相応しない事が多い。しかも今や人々は、どんなに遠く離れていても、リアルタイムで相手の顔を見ながら会話する手段を手に入れた。
交通機関の高速化による時間距離の際限ない短縮化は、人々から距離感覚を奪った。また、情報伝達技術の革新が、パソコンや携帯電話を使って地球の裏側に住む人と互いに顔を見ながらの会話を可能にしている。何処にいても、遠隔地に住む人と肉声で会話できる便利さは、人々の生活感覚に大きな変化をもたらす。
携帯電話の普及は、互いを隔てる現実の距離を仮想的にゼロにする。離れていることのほうが非現実と錯覚するような近接感の中で私たちは暮らしている。
人々を隔ててきた距離が、現実的にも仮想的にもこれほど縮まってくると、人にとっての一時的な別離は、悲しみや痛みをともなうものでなくなって当然であろう。
ひと時代前の歌謡曲の詞にあるような、当人達にはこのうえなく悲痛で耐え難かった別れは、近頃ではいっこうに悲しいものではなくなった。当事者には常に再会の容易さが保証され、様々な情報機器が近接感を増強する。
プラットホームや空港で、別れの泪をほとんど見なくなった。先刻別れた人の声をその直ぐ後で聴くことができるなら、現実の別れはすこしも辛くない。
これでは、メロドラマ(もうそんなものは放映されないが)のヒロインが別れに泪を流すシーンに、共感を覚える視聴者はほとんど居なくなっているかもしれない。
リニアモーターカーが実用化されると、東京-大阪間の時間距離は1時間台になるという。ちょっとそこまでに近い感覚だ。そうなると、見送りで泣く人は皆無になるに違いない。いや見送りという行為そのものが、意味のないものになる。
21世紀を生きる人間が別れで泣くときは、無限の距離で互いが隔てられる死別のときだけになってしまうのであろうか?
流さなくなった泪の分量に応じて、別れの哀切を感受する心が失われるのでなければよいのだが・・・・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます