メジロはひっきりなしに訪れてくれていたのだが、数年前から姿を見せなくなった。
居間の南のガラス戸から半間先のフェンスに餌台を設け、アワ・ヒエ・くず米などスズメの好む餌を置き、群れ集まるスズメを見て悦んでいたのが拙かった。スズメに心を移したと思われたのか、メジロがパッタリ来なくなったのだ。
お見限りされたのである。
今春は心を入れ替え、スズメの餌は地表に撒き、餌台にはミカンだけを置いてみた。メジロはまた元のように姿を見せてくれるようになった。
野鳥飼育が合法であったころには、棚にメジロ籠が10個も並んだほどのメジロ好きだった。それよりずっと昔の小学校高学年の頃の秋冬の遊びに、メジロ獲りがあった。
夏のトンボ獲りで扱い慣れた鳥モチを、篠竹の細茎に丁寧に塗りつけるのはお手のものだった。
ミカンを載せた囮り籠を手頃な高さの木に吊り、モチを塗った笹棒を2本ほど渡して茂みに身を潜める。すぐ「チチチ」と地鳴きが聞こえ、影が羽ばたいたかと思うと、メジロはモチ棒に脚を捉えられ、頭を下にぶら下がる。狩猟本能が満足する瞬間だった。
メジロを片手に大切に包み、モチから脚を外し素早く靴下の中に容れる。メジロは大人しくしている。
獲物をポケットに、仲間と意気揚々引き揚げた。
野蛮と謗られようと愛鳥精神に欠けると詰られようと、日本では鳥捕りは歴とした文化だった。食用であれ観賞用であれ、それに携わる生業が、古くからあったことを我々は忘れてはいけないと思う。特に飼育に関しては、園芸に匹敵する進歩を遂げていた。
我らは精妙に竹ヒゴで編んだ竹籠で小鳥を飼った。富貴は漆塗りの竹籠を用いていた。同じ時代、彼の地では、庶民は鉄の檻で小鳥を飼っている。同じ鳥カゴでも、小鳥の遇し方が違う。何でも西欧流が優れているとは限らない。
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