私は現在のSNSの隆盛を歓迎して来た。誰もが全ての人に向けて任意に考えや意見などの情報を、画像・映像やテキストの形でネット上で発信でき、誰もがそれを任意に受信し応答できる社会は、人類の永年の夢の実現だと思っていた。しかし、その実相を見ると、それが必ずしも私たちを幸福に導くものばかりでないことに気付いた。
特にTwitterにその思いが強い。文字数(半角280)に制限のある短文投稿では、檄文は書けても解説文は書けない。tweetを重ねても、文字数制限は文脈を断ち切り、思考の発展を妨げ、言葉足らずや誤解を招き、論旨を完結させ難い。tweetは思考の断片に過ぎない。断片を何千何万集めても、論説には成らない。
最もいけないのは、匿名投稿に付随しがちな過激な言動である。普段では発しないような言葉遣いをよく目にする。時にはヘイトと呼ぶに相応しい罵詈雑言のtweetを見ることすらある。もはやtweet(呟き・さえずり)などと生やさしいものでなく、twit(なじり・なじる)という言葉に当たるものもある。告発・指弾・批判から当て擦りや皮肉・誹謗・中傷まで、凡ゆる不穏当なtweetがタイムラインに羅列する。
改めてTwitter社の社名とtweetの実態に注目すると、このコミュニケーション・サービス創設の動機と繁盛の理由が、人間の心理の奥に潜在する他者への攻撃性を誘発させることにありはしないかとの疑念を覚えざるを得ない。ユーザーは無自覚の裡に、過激な言動に慣れてしまうのではないか?
これら節度のない野放図なtweetは、人を感情に奔らせるだけで、実りのある良好なコミュニケーションを妨げるものである。
SNSと一括りにするが、Twitter とFacebookとでは、その運営動機には大きな違いがあるように思う。
Twitterの名称に、他者をtwit(なじる・責める・あざける・ひやかす・からかう)する意図が伏在している印象を払拭できない。
tweet本来の意味は(つぶやき・さえずり)ということだが、それは自己韜晦の隠れ簑的表現で、現実はそのように穏当なものではない。
twit(なじり)は他者を煽り憤慨を招く。玉突きのようにそれがタイムラインに乗って伝播する性質を具えている。twitと呼べるtweetは、概ね義憤に駆られてのことが多いのだろうが、正しいからと言って、人に不快感を与えるのは良俗に悖る。
tweetでの罵詈雑言は、当事者はもとより閲覧者をも不快にさせる。
メディアの伝聞報道に触発されたなじりを連発し、それが切れ味鋭くフォロワーの賛同がどれだけ多く得られても、人々に幸福をもたらすことはないだろう。
私たちは、テキストという表現形式を用いて、Twitter 上でそれぞれの考えや意見を発信し合うが、それは覆面をした大勢の人々が、言論という一種のダンビラ(刀)を振り回し合っている姿に似ている。
Twitterの真の目的は、人々に呟かせることでなく、文字どおり人々をなじらせることに主眼を置いているのではないか?と思うのは穿ち過ぎか?ネット空間で、敵味方入り乱れてチャンチャンバラバラの修羅場が展開されている光景を想像すると、老人は身が竦む。
遣い手・手練れ・練達者・未熟者が入り乱れ、当たるを幸い言葉の刃で切りまくり闘いまくるためには、若さと気力が必要である。世に聞こえた(匿名でない)論客たちのタイムラインからは、連日打打発止の鍔音が聞こえてくる。
人は乱闘によって物事を解決できない。私たちは円満で筋立った協議以外に、問題の解決を図ることはできない。刹那的で勝手気儘なtweetの応酬は、人の心を波立たせるだけであろう。
幕末の三舟のひとり勝海舟は「人を切ったことが無かった」と自伝で語っている。下げ緒を刀の柄に固く巻いて、抜刀できない様にしていたという。
彼は、血腥い幕末動乱の時代にあって、意識して、ダンビラ(刀)を振り回さないよう留意していたようだ。当時一流の剣客だった島田虎之助の高弟だったが、チャンバラとは一切縁を絶って、生涯を了えた。
現代は企業ジャーナリズムに依拠しなくても、誰もがフリーのジャーナリストになれる時代だ。だからといって、言いたい放題は許されない。
言葉の刃は、一旦鞘から抜けば、人を傷つける凶器にもなる。twitterによる発信は、意図せずとも人を傷つけたり、悪意を放射する可能性がある。ヘイトスピーチの温床になりやすいのは、サービスそのものに、ヘイトとの親和性が高い性質が隠れているのかもしれない。
SNSは私たちを幸福に導いてはくれないだろう。
18世紀に新聞がヨーロッパで普及し、19世紀になって電信・電話が発明され、20世紀にはラジオ・テレビが参入してマスコミュニケーションの社会をつくりあげた。マスメディア、マスコミは人々を幸福にしただろうか?
「一過性の事実をどれだけ多く知っても、人は幸福にならない」「報道は現実には無力である」という重い真実がある。
マスメディアは、事実の調査と報道を忘れ、社会をミスリードしたり、権力に迎合したり追従したりして、国民の判断を誤らせることが絶えない。高度に知的な産業でありながら、批判精神を失ってしまったのは、媒体(電波)を占有する政府の免許に依拠する事業の安定性が、第4の権力として政権と狎れ合う道を選ばせるからだろう。インテリほど権勢欲は強く、権力には弱いもの。現在のマスメディアはそれを体現している。社会の木鐸の気概は疾うの昔に失われた。
私たちは情報をいくら大量に知り得ても倖せにはなれない。吉もあれば凶にも振れる様々な一過性の情報にどれほど大量に触れても、私たちは賢くなれない。
インターネットの普及で、情報の量は増え、拡散性は飛躍的に高くなったが、情報はその情報に触れる人々を幸福にしようとして発信されるものばかりではない。
SNSのひとつTwitterでは、大勢の人がタイムライン上で短い発言を繰り返し発信している。その発言の源泉の多くはマスメディアの報道、すなわち伝聞情報である。報道によって誘発されたものがほとんどであろう。個人で調査や取材したものはほとんどない。配信された情報をベースにした発想や着想である。情報の入手先が極めて安直なのである。
マスメディアが報道するニュースには、人を憤慨させる行為や事件が多々ある。それら一般の人々の正義感に触発されたtweetは、どうしても批判的、攻撃的になり勝ちである。自身の過去のtweetを顧みても、明らかにtweet(呟き)を超えtwit (なじり)になっていたことが度々あった。雰囲気に巻き込まれてしまい、twitとなると攻撃性は一挙に強くなる。辛辣な口調の発言の中には、言葉のダンビラを振り回していると感じられるtweetもある。皆が言葉のダンビラを振り回すのは、公序良俗に反するとまでは言わないが、醇風とは言えない。
私はTwitterを、誰もがいつでも抜ける刀と捉えることにした。私は目下tweetを発信することを差し控えている。間違っているかもしれないが、Twitter社が栄えても世は良くならず、つぶやく人々は幸福にはならないと考えたからである。
論客たちの切れ味鋭いtweetの内容に共感や敬服することは多い。しかし所詮一過性の顛末に立ち入らない呟きである。批判は負け犬の遠吠えで、実効力が無い。
現代はニュースがあまりに多くて、ひとつの事件について思考を留めていることが出来ない。フォロワーがどれだけ多くても、リツイートや引用ツイートがどんなに沢山あっても、電線がショートしてバチバチと火花を散らしている状態を連想してしまう。火花を出して終わってしまい、決して燃え広がらない。
twitter の運営主体Twitter社は莫大な利益を得ているだろうが、毎日のタイムラインをtweetで埋める無数の人々は、自己満足しか得られないのではないか。意見を吐いて檄を飛ばし言いたい放題、ダンビラを振り回す人々も例外ではない。貴重な思考力を、無駄遣いしているのではないかと考えてしまう。
Twitterは、明らかに人の為でなく自分のため、自我がtweetを促すのである。ということは、tweetには習慣性 ・中毒性があるということである。
稀には、誰かのtweetが人々の支持を獲得し、大きなうねりが起こることはある。うねりを起こした本人は、そのうねりに巻き込まれ、存在したことも忘れ去られてしまうだろう。
tweetは、発信者の知名度、社会的影響力によっては、単なる呟きではない世界の果てまで届くラウドスピーカーと化す。その意味で多大な影響力を他に及ぼすことはできる。しかしながら強い影響力を持った人々のtweetもまた、他の人々を幸福にする力をもつとは思えない。
勝手ながら,本記事を参考に当方意見も書いてみました。
大変参考になりました。ありがとうございます。
今後もよろしくお願いいたします。