私たちが歴史に尽きぬ興味を抱くのは、時代を背景とする歴史的事件の裏に、事件の当事者たち人間の諸々の野心や葛藤、確執が虚実とりまぜ記録されているからである。遺された歴史史料によって、個人と社会組織の生命の軌跡を辿ることができるからであろう。歴史は、人間と社会を知る上で格好の標本を提供してくれている。
史実は必ずしも事実を伝えない。事件に関わった人たちの自己正当化の為の誇張・潤色・捏造・歪曲・隠蔽など、あらゆる欺瞞が紛れ込む可能性がある。また、後の世の歴史家の研究や推理には、史料や文献の解析・解釈の誤りや固定観念・先入観が紛れ込む可能性を排除できない。史実は時の権力者の容喙により変容を避けられない宿命をもっている。
歴史に真実を求めるのは、無意味であって、真実らしささえあれば充分である。歴史はピントの合わない望遠鏡で覗く世界である。そこが歴史の面白いところなのだろう。
隠蔽を剥ぎ、誇張を削り、滅却を推理と想像で復原する愉しみは、歴史研究者にとって何よりも知的好奇心を満足させるものかもしれない。
最近の歴史研究によって、ある人物の軌跡に新発見が加わり、それが画期的であった場合、その人には時代を築いた人という賛辞が捧げられる。しかしそれは、戦争の勝利を1人の英雄の采配に帰することと同じで、全くナンセンスである。
一個人に時代を築けるわけがない。時代が才能ある彼に、活躍の場と時、支援者を与えたのである。
時代とは、同時代の有名無名の人たちの滔々たる社会生活の営みの集積したものである。歴史に名を遺した個人は、たまたま運良く歴史の舞台への登場を時代に許され、脚光を浴びた者である。
彼は時代に一瞬の光芒を遺したに過ぎない。時代は、無名の大多数の人々が築き支えるものである。
史料にとらわれ英雄にとらわれ、同時代の社会を構成した無名の人々の活動を視野に収めることができない原作者というものは、歴史ドラマづくりの側から見れば都合のよい存在だろう。だがその原作は、どんなに卓越した脚本家が脚色し、傑れた演出家が演出しても、良いドラマには仕上がらない。人間模様が描けないからだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます