以前の記事で「発想の違い」について陋見を披瀝したが、今回は「認識の違い」について考えてみる。
発想は表に現れにくいものだが、認識は比較的表出し易い。発想はどこまでも個人的なものであり、100人100とおりの発想がある。それに対して、認識は、共同体や社会階層など、ある限られた集団の構成員が共有する共通認識というものがある。
それでも、認識が異なることはよくある。人の人生は、認識の異なる人たちとの調整にエネルギーの大半を消尽していると云ってもよいだろう。それと比べれば、学習に費やすエネルギーなど、微々たるものでしか無い。公式、非公式を問わず、そのために割かれる時間は多い。特に認識の違いが露わになったときが大変で、それを論理の正当性で埋めることはできないし、議論を尽くしたところで、特に日本人の場合はよい結果をもたらさない。
議論を避けたがる日本人の性向は、互いの認識の曖昧な部分を残したままに集団の意思を固めたがる。その結果、集団の構成員の個々の意思と乖離した集団の理念・信条ができあがり、これを修正しようとしてもその根底が模糊としているので自律的に補正することはなかなかできない。
福島の原発事故に因る放射能汚染が、このかけがえのない日本の自然を、汚染前と汚染後でまったく異質なものにしてしまったと言う認識は誤っていないだろう。天災はほとんどが復旧可能で必ずそれを実現できるが、復旧が絶対的に不可能な災害が厳然としてあることを、前世紀の末のチェルノブイリ原発事故が既に世界に示している。
復旧不可能な災害に対しては、半永久的な、幾世代にもわたる対策と管理が必要だ。過去に一過性の災害しか体験してこなかった私たちには、半永久的に被害が継続する災害に対して的確な対処をし続けるのは甚だしく困難なことだろう。
現下の政治は、一時的一過性の災害対策と、恒久的継続性の災害対策とを区別しないで、総括的に復旧の掛け声をかけているように見える。これを整理できて初めて、将来に向かっての展望が拓けると思うのだが、今は全くお先真っ暗だ・・・・・。
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