道々の枝折

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宇佐神宮伝3

2019年09月13日 | 歴史探索

【宇佐神宮の成り立ち】

その3 八幡大神の発展

1. 八幡大神の上京・盛大な出迎えと大法要

平安時代初期の791年に完成した勅撰史書続日本紀(697年〜791年)は、748年以降の記述の中で八幡神の呼称を八幡大神に改めているという。公に神格が高まったことを示すものと言えるだろう。

749年、八幡大神は託宣を発して上京し、東大寺大仏を礼拝する。具体的には八幡大神の禰宜(ねぎに)大神杜女(おおがのもりめ)という巫女が八幡大神を代理して上京した。朝廷は前例にない盛大な出迎えをしている。

東大寺で孝謙天皇・聖武太政天皇・光明皇太后が参列する大法要が営まれ、大神杜女大仏に礼拝する。
この時、八幡大神と比売神の二神に位階が奉られ、宣命を以って大仏造立援助に対する謝辞があった。

749年、東大寺の境内近くに鎮守八幡宮「手向山八幡宮」が建立され、八幡大神は大仏を守護する神と成った。更に翌750年、朝廷から八幡大神と比売神の二神に対する褒賞として、封戸1400、位田140町が授けられた。

それから間も無い752年、盛大な大仏開眼供養が行われた。八幡大神と宇佐八幡宮の勢威は他の神社を圧倒し、朝廷の八幡宮への崇敬は最高に至った。

2. 八幡神による神仏習合の主導

大仏造立と八幡神との関係は、神仏習合の思想を中央にもたらし、「護法善神思想」によって定着した。寺院を守護するために〈鎮守の神社〉が各地に建立された。「護法善神思想」はその思想的背景として国内に広まっていった。

仏教伝来の後に地方において広まった、神の苦悩を仏が救うという「神身離脱思想」のもとに、神社境内に神宮寺が建てられた歴史的事実と対照をなすもの鎮守である。

鎮守においては、神霊の分霊、勧請が盛んに行われる。朝廷の尊崇篤い八幡神の勧請は、中央から国々の国分寺をはじめ全国に及び、各地に鎮守が出現した。これが八幡神社の興隆に繋がる。

3. 宇佐八幡神宮の蹉跌(厭魅事件連座)

八幡大神の上京と大仏礼拝の後、絶好調にあった宇佐八幡神宮に754年、青天の霹靂とも言える事態が発生する。それは、宇佐を遠く離れた大和の地で出来した。

大和薬師寺(鎮守宮存在)の僧行信が、八幡神宮の主神(かみずかさ)大神田麻呂(おおがのたまろ)と禰宜尼の大神杜女(八幡大神上京時の巫女)らと共謀し、厭魅(えんみ)=(呪詛)を行なった廉で、3人共捕らえられたのだ。
誰を何の目的で呪詛したのかは明らかにされていない。謀略の匂いはするが、詳しいことは一切記録にない。

事件の共謀者3名は配流された。755年、宇佐八幡神宮は八幡大神が上京した翌年に賜わった二柱の神の封戸・位田を朝廷に返上し、八幡大神伊予国宇和嶺に遷座(移転)する。
朝廷に自粛謹慎の意を示したということである。宇佐八幡宮には八幡神が不在となり、祭祀の実権を握っていた大神氏なき後の宮を、辛嶋氏と宇佐氏の2氏で奉斎する時期が続く。

4. 八幡大神の宇佐宮帰還

765年、八幡大神は託宣を発して宇佐神宮に帰還する。続いて翌年には〈大神田麻呂〉と〈大神杜女〉が配流を解かれ神宮に復帰した。この顛末から、厭魅事件は、神宮神職団の権力闘争に因るものだったと見る推測もある。

5. 重なる不祥事、〈道鏡〉の天位託宣事件

都では〈恵美押勝〉が乱を起こして滅亡した。〈孝謙天皇〉の寵を受け台頭していた僧の〈弓削道鏡〉が、孝謙天皇が重祚した〈称徳天皇〉のもとで法王となり、勢威を恣にしていた。
太宰府の主神(かんずかさ)〈習宜阿曽麻呂(そげのあそまろ)〉という人物が道鏡に取り入り、八幡神の「道鏡を皇位につければ、天下は平になるであろう」という偽りの託宣を天皇に告げた。

天皇は〈和気清麻呂〉を宇佐神宮に派遣して託宣の真偽を確かめさせた。清麻呂の出立前、道鏡は清麻呂に官職・位階を与えることを仄めかし、自己に有利な計らいを暗に求めた。

清麻呂は宇佐神宮に参籠して祈り、道鏡に天皇に成る資格が無い旨の託宣を聴く。このあたり、託宣というものの政治的利用が浮き彫りになっている。帰京した清麻呂から八幡神の託宣を聴いた道鏡は大いに怒り、清麻呂の官職を解き大隅へ、姉の広虫を備後に配流する。これが世に有名な宇佐八幡宮神託事件の概要である。

6. 神託事件関係者の処分

事件の翌年、〈称徳天皇〉が崩御する。皇太子の白壁王の下での真相究明で、道鏡の皇位簒奪の陰謀が明らかになり、道鏡は下野国に左遷、太宰の帥であった道鏡の弟とその息子たちは土佐に配流された。和気清麻呂と姉は召喚され帰京した。僧道鏡と孝謙女帝との特別な関係は後世の人に遍く知られているが、宇佐八幡宮の八幡神の託宣が、皇位を左右するほどの権威をもっていたことは案外知られていない。神のお告げ(託宣)を権力者が利用して、政治を恣意的に操ろうとした律令国家の政治手法が浮き彫りになった事件と言える。

厭魅事件道鏡神託事件と続いた不祥事にもかかわらず、朝廷の宇佐八幡神宮への崇敬は揺るがなかった。


参考資料
①「八幡神と神仏習合」逵(つじ)日出典著 講談社現代新書
②「日本人の神入門」島田裕巳著 講談社現代新書



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