道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

同調圧力

2021年03月25日 | 人文考察

発意・発案・発言を控えて暮らすことは、自らの考えや意思を成る可く明らかにしないで世を渡ろうとする姿勢である。意識して自分の意思の表出を抑えるのは、常に多数の側に就かんがためであろう。意思表明に対する反発とそれに伴う孤立を怖れるからに違いない。何も発しないで大勢にくなら、反発に遭うことも孤立もない。常に多数派の一員として、自己の存在を保って居られる。そのような生涯を送るのは、さぞかし不満が積りはしないかと心配するが、存外気にならないものらしい。

自らの考えを表明せず、多勢の合意即ち大勢に順応していれば、生活の安泰は保証される。この姿勢は事大主義を招く。また理非曲直を問題にしないで多数派に与するなら、日和見主義に陥るだろう。

人は自ら発出するものが少なければ、誰かの出した考えや意見を批判し、論評し、審判することが多くなる。というよりそれしかできなくなる。他者の発出した考えに触れて初めて自分の思考が発動するパターンは、私を含む老人に多く見られる通弊で、精神の老化の一端と見られている。

相手がグーを出してからパーを出すのを後出しジャンケンと謂う。ほんの一瞬の時間差を利用してジャンケンを制することは、理論的には可能だろうが、必ず相手方に知れる。私たちの社会では、実にこの後出しジャンケンが夥しく横行している。

ジャンケンの基本ルールを無視するなら、後出しした方が勝つに決まっている。後出しジャンケンは、狡猾で運命に賭ける勇気をもたない精神の持主が常用する手段である。一見正統な意思決定をしているように見えるが、実は多数の動向を素早く読んでの判断に過ぎない。
誰かの考えに触れて初めて、自分の意見を表明する後出しジャンケンがあまりにも多い。SNSなどで推し測ると、先発と後発の比率は2:8ぐらいだろうか。ここでも2:8の原則は生きているようだ。他人の発想を叩き台にしなければ発想できない人の方が圧倒的に多いのが、正常な社会ということだろう。

彼らは先発を避け後発を選ぶ。したがって旗幟を鮮明するに吝かな人たちである。かつて湾岸戦争の時、日本政府の対応の遅滞に苛立った米国のアーミテージ国務副長官に、“Show the Flag”とやられて周章狼狽した人々である。

彼らは常に全体の動向を見て多数に蹤く。多数が強者だからである。多数の中に身を置くのは安全である。多数の賛同が彼の存在を確かなものにする。自ら思索をすることよりも、多数の動向に注意を集中し、常に多数に同調するのである。総意にこそ正義があると信じている。個人の正義感など取るに足りないと考えているかもしれない。

彼の同類が多数集まり主流派になると、そこに同調圧力が発生する。
同調圧力とは、多数の人間が集まるところに生まれるのではない。一様な考えの人々が集まると圧力が生ずるのである。密度が高まることで圧力を生む。
多様な人々の集まりでは、どんなに数が集まっても同調圧力は生じない。集団とか多数が問題なのではなく、考えの一様な人たちが集まると、圧力が生まれる。

日本社会は、近代それも敗戦までは多様性を排し同質性を尊ぶ社会だった。したがつて、如何なる集団においても同調圧力が高くなる性質をもっていた。集団主義と呼ばれるものの本質は、その成員の一様性と同調圧力である。
一様が集合すると密度が高まるのは、多様よりもまとまり易いからである。

稲作農業社会は、機械化されるまで同時・同質労働で成り立っていた。これを数千年に亘って毎年繰り返していれば、慣い性となってその社会は何よりも同時性同質性を重んじるようになるだろう。同時に同質の仕事をしていれば、その社会の成員としての生存権は保証される。コロナで到来したテレワークも、同時・同質が担保される分野では、コロナ後の働き方として定着するだろう。

日本人社会の一般的特性として、内外から薄弱な自我と勇気の欠如が指摘されるのは、この習い性に因るものと思われる。それこそが、この国において、不覊独立の精神と合理的思考を阻んで来たものの正体である。

この正体は、集団への依存性を高め同調圧力を生み、集団主義と呼ばれる生き方をつくり上げた。日本人の多くは、「寄らば大樹の陰」で「世渡り上手」に「長いものに巻かれ」て生きる。個性など発揮するのは愚か者のすることと、幼い頃から教えられて来た。他律的な大勢順応こそが人として望ましい生き方だという考えは、骨の髄まで染み込んでいると思って間違いないだろう。

その結果として、自己存在感の乏しさから虚栄心の虜となるのもまた、同調社会に対するささやかな抵抗、反作用である。当人が拘りをもつ事柄に関しては、異様なほどに見栄を張る傾向が強い。他人の目を強く意識するのである。
これは同族の中国、韓国の社会でも顕著である。これらの国々は、国家的にも見栄を張る。為政者の心理は政治に反映する。わが国も例外ではない。オリンピックは平和の祭典ではない。国家の見栄の、最たるものだ。メダルの数は、国の後押しがあるかないかで違ってくる。

自我が矮小なのは、現実と理想を適切に併置出来ない個性の未熟さに原因がある。
自・他の位相の違いを的確に認識整理し、現実と理想を適切に折衷する成熟した精神こそ、私たち自身が自律的に生きるうえで、確立したいものでないかと思う。


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