私たちは日頃、健康を保つことに特段の注意を払っているが、いったん病気になって病院にかかってみると、自分のほかにこんなにも多くの、治療を必要とする病人がいることに愕き、失われた健康の回復を痛切に願う。
日進月歩の医学の進展は、検査の精度を高め、診断の正確性は向上の一途を辿っている。治療成績も卓越していることだろう。
今日、疾病は比較的軽微なうちに発見でき、早期に治療できるようになった。病気によっては、発病前に治療に着手したり、発病を防ぐことすらできるようになっているらしい。
有病率というものは、年齢に応じて高くなるものだから、早期発見と相まって、高齢者が何かしらの疾病をもっているのは当たり前の時代になっている。
身体的疾病の対極にある、生命に直結しない精神の疾病となると、内科領域・外科領域の長足の進歩に比べ、私が寡聞にして知らないだけかも知らないが、精神科領域の治療は、画期的な進歩を実感しない。新たな病名もそんなに増えていないようだし、治癒率も、身体的疾病と較べると地味に見える。目下はアルツハイマー病の新薬が、大きなニュースである。思うに精神科の領域は、薬物治療が殆どで、手術や工学的技術の応用による治療法は少ないのだろう。そういう特質をもった医療分野なのだろう。
身体の一部でありながら、精神の本拠たる脳という器官の病は、病原や発病のメカニズムが身体の病と本質的に異なり、それだけ別の意味で治療が難しいということになるのだろうか。病理の複雑性、治療の困難性は、身体的疾病よりも飛び抜けて難しい面もあるに違いない。
加齢による脳の変性は、患者の精神に直結している。それまで精神的に健常だった人が、様々な精神疾患に罹るようになる。加齢による病気は、身体と精神の両方で同時並行して進行すると見るのが妥当ではないか。
その点では、生命に関わらない精神医療は、どうしても身体医療より遅行する性質があるだろう。
人間の尊厳に関わる精神の適切な治療やケアとなると、まだ我が国は欧米など医療先進国に遅れているのではないか?彼我の人間性理解の程度に差があることが原因だろう。
体の監視役は精神だが、精神そのものの不具合となると、それを監視する存在は、家族とケアの専門家に限られる。したがって、精神の衛生の管理が格別に難しいのは素人にも想像できる。
人間は身体の衛生には殊の外敏感だが、精神の衛生となると愕くほど鈍感である。
人の精神というものは、おそらく建築物のように構造を為しているものではないかと考えてみた。
基礎部分が遺伝子の働きに負うもので、土台から上の造作に該る部分は、自身や他者の影響のもとに複雑に組み上げられている。
精神構造とは、間断ない社会体験や学習や生活、親子関係や家族関係の伴う交友や社会生活によって、少しづつ構築されたり、改修されているもののように思う。
身体同様、精神も年齢による劣化を免れない。劣化が外に表れない間は、よくよく自分の内面に注意していなければ変化を自覚するのは難しそうだ。自分で変化に気づくのは、身体的疾病よりはるかに難しい。
還暦を超える頃から増える内科的・外科的疾患の多彩さを想うと、外に表れず自覚症状もない精神的疾患も同時に増加に向かうと予想するのは、故ないことではない。
医療以前の精神の健康について、個人と社会の両面で研究が進んでもらいたい。医療先進国とは、フィジカルヘルスとメンタルヘルスの双方に同等に目が行き届いている国のことだと思う。
その意味で、今日の先進国とは、イギリス、フランス、ドイツ、北欧諸国に限られる。
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