道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

整理について

2007年05月09日 | 随想
あることに興味を持つと、それに関係する用具や資料を集めたくなるもの。世に興味の種は尽きず、それに応じて物がどんどん増えてくる。そうなると、増えた物で身の回りが雑然としてくるから、これらを分類整理して収納する必要に迫られる。

カテゴリごとに分類整理をするまでは何とかなるが、これを体系的に整理分類しないまま仕舞うと、今度は必要ある時にその物が何処かに潜り込んでしまってどうにも見つけられないことが屡々起こってくる。皮肉なことに、整理をすればするほど物が見つかりにくくなってしまうのは、私自身が体系的なもののとらえ方が上手くないのだろう。パソコンでデータを階層的に整理するときなどそのことを痛感する。

分類学の父、リンネの存在を挙げるまでもなく、一般的に、欧米人のほうが物事を体系的にとらえることに優れているように思う。彼等のオフィスや居宅など生活空間が整然としていることは驚嘆に値する。単に綺麗に整頓されているのとは違って、収納や配置に合理性が貫かれている。経験的に学んだのでなく、彼等人種の稟質によるものだろう。

上手下手は別にして、分類や整理という仕事には、体系的な把握が不可欠である。そのうえで 、検索表がきちんと整備されて初めて整理収納というものは意味を持つ。かつて事務合理化の講習で「廃棄を伴わない整理は単なる整頓でしかない」と教えられたことを思い出した。整理は廃棄を含んだ概念で、整頓は廃棄を伴わない概念だという。

思えば物心つく頃から長じるまで、どれほど親や教師に整理整頓を喧しく言われてきたことか。学校の教室で「整理整頓」の張り紙を見なかったことはない。今思うと、これを喧しく言う側でも、整理と整頓を明確に区別していたのでなく、単に整頓を強調する連語として使っていたように思う。職員室は整然と整理されていなかった。

整理の要諦は廃棄にあることを知って以来、仕事や生活の場で実践しようとしてきたが、どうもうまくいかない。クールにモノや書証を廃棄処分することが苦手なのだ。捨てるか捨てないか散々悩んだあげく、面倒くさくなって「えいっ、ままよ」と捨てることになる。はなはだ不合理な結果となってしまう。会社や役所など身近な周辺を観察しても、欧米のように整然としたオフィスは殆ど見かけない。物が収納されていず、任意の場所に雑然と置いてある。廃棄コーナーなどない。組織としての廃棄が行われていないようだ。 もしかして我々には、廃棄を躊躇う心性が潜んでいるのではないかと思う。その原因について考えてみた。

大量消費の時代が到来するまでの長い間、常に物資が乏しかったこの国では、物を大切にすることが人として正しい望ましい行いであって、物を粗末にしたり捨てたりすることは嫌われた。江戸時代には、ゴミやガラクタ以外のモノはたいてい捨てることなく修理したり再利用や再生をしたりして物はとことん活用されたという。古来貴重であった紙などは、書き損じの書き付けを襖や屏風の下張りその他に活用している。廃城や廃寺に当たって門など建屋が移築された例は多く、一般に旧い建物の材料は再建築の資材として活用されるのが普通だった。廃棄という概念はもともと日本人の心性には馴染まないようだ。斯様な生活文化の積み重ねで、我々には、整頓はあっても廃棄を要件とする整理の文化が育たなかったのではないか?

体系的分類と廃棄が苦手では、到底整理上手には成れない。誰もが同じ悩みを抱えていると見えて、書店の棚には収納術や整理の秘訣に関する本がいっぱい並んでいる。どれほどその類の本を渉猟しようと、問題の本質の廃棄を躊躇う心情がある限り問題の解決は難しいだろう。整理や収納に熟達するかしないかは、少なくとも検索表をつくる几帳面さと、廃棄を避けたい自らの情緒を克服できるかどうかに掛かっているのだから・・。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 作物栽培の面白み | トップ | 望月峠 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿