道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

恋というもの

2020年02月28日 | 恋愛
新型コロナウイルスのTV報道を連日視聴していると、外出を避けていることと相俟って、かなり気が滅入ってくる。
こんな時は、とうの昔に過ぎ去った恋のことでも考えてみようと思った。恋という言葉の意味・感情を忘れてしまう前に、書き留めさせていただく。

恋について、忌憚なくかつ衒いなくそれを書けるのは、遥か昔に恋と無縁になった老人の特権である。恋が現実のものであるときは、冷静に考えたり論評をしたりすることは、到底できない。

人生万事、必然であれ偶然であれ、ことの発端は運命の手に委ねられている。恋もその端緒は運命の女神の手に握られているに違いない。恋を成就させるものは女神の計らいと恋人同士の情熱だが、それを妨げ壊そうとするのも、同じ女神の仕業である。この女神の性質は、まさにトリックスターのそれである。

運命の女神の気まぐれから、実った恋を守り抜くのは容易なことではない。
何しろかの女神は、善にも悪にもわけ隔てなく加担し、しかも手段を選ばない。我が手で実らせた恋ですら、いともたやすく打ち砕く。

真実の愛で固く結ばれた恋などと言うものは、恋人同士の幻想ではないだろうか?
何故なら人には、他者を愛する以前に先ず自己愛という、自身を愛する気持ちがある。人は愛されることに執着する。自己実現は、愛の獲得がなければ達成できない。人間は愛するより愛されたい動物である。愛されたいがために愛するとも言える。相手に愛されないと、相手への愛は潰えてしまう。

人が自分に好意ある者を好くのは、自己愛を満足させるからである。自己保存本能に由来する自己愛ほど、他者への真実の愛と背反するものはない。しかしまた、自己愛がなければ、他者への愛も異性への愛も生まれない。この不条理が、恋をいつも悲劇に終らせる。

異性への愛は、生殖本能という、やはり自己保存本能に属する情動に使嗾されているのは間違いないだろう。したがって異性への愛、恋心が芽生えると、自己愛は一時的に影を潜める。しかし、決して消滅するわけではない。自己愛は恋情の裏にヤモリのようにピタリと張り付いて、いつも眼を光らせている。恋愛につきものの嫉妬が、自己愛が満足されない局面で顕れるのは、嫉妬の感情の根源が自己愛にあることを示すものである。

繰り返すが、男女双方にとって自己愛は、恋愛成立の要因であると同時に破綻の原因でもある。つまり恋愛では、当事者双方に自己愛の情動が常に働いていて、恋愛感情が当人たちに満足感を与えているうちは幸福だが、どちらかの自己愛を損なうような事情が生ずると、相手への恋情はあっという間に消滅する。恋は恋情の等価交換の上に成立しているものらしい。
恋は双務的関係のものである。一方の愛は、本質的に片務的関係でも成立する。

恋人同士の恋情を、温度計の表示に喩えると、通常の恋では必ず男女の恋情の目盛り表示は背馳するものである。一方の熱が上がると、反対に他方は下がり、一方の熱が下がれば、その反対に他方は上がる。恋人同士の恋の情熱は、シーソーのような動きを繰り返しているのが好ましい。その振幅が小さいうちは、恋は安定を保つが、振幅が大きくなりすぎると、二人はそれに耐えきれず、恋は破局に向かう。

恋の当事者双方の恋情が共に上行するのは熱愛という状態で、危険この上ない。共に上限に達した場合は、情死に至るとされている。明治・大正の作家有島武郎の心中の例がある。男女共に情熱が上限を超えれば、狂気の域に入ってしまう。

つまるところ恋愛は、幸福駅への到着を保証する直行列車ではない。2人で相揃って終点に到着することなどごく稀であろう。
運命の女神の悪戯によって、過失や誤解が相互の不信を生むと、互いの自己愛が忍耐の限界を超える。ふたりはもう元の心境には戻れない。それぞれ途中の駅で列車を降り、遠ざかる幸福駅行き列車のテールランプを、虚しく見送ることになる・・・ 

結婚は恋愛と関連性が濃いが、明らかに次元の異なる事象である。恋愛と結婚が連結していると見る見方は、永く人々を欺いてきた。世の中には、嘘とわかっていても、社会の平穏安定の為に虚構を信じなければならない事柄が数多くある。恋は経時劣化する性質のものだが、結婚は時が経つほど強固になる性質のものだ。恋は必ずしも幸福を保証するものではないが、生活を営む結婚は堅実で、ささやかながら紛うかたなき幸福をもたらす。

西洋人は、恋愛に根拠をもたない結婚を不自然と捉えているかもしれない。ここからの意見は、調査したわけではなく、状況証拠に基づく推測である。

彼らの結婚は、恋情と固くリンクしているように見える。彼らは人間の動物的本性を抑圧したり偽ったりしない。しがって恋が同棲を招き、その公認の形態として結婚があるのを自然としている。恋情が冷めれば、宗教的制約がない限り離婚をする。その後も新たな恋と結婚を繰り返す例が多い。

幕末に渡米した幕府の使節団のひとりは、米国人の成人男女の自然な恋愛の有様を見て、「禽獣に等しい」と記したが、それは皮相的な見方である。人間性に不寛容な儒学を学んだ当時の日本の武士に、人間性に従順な男女関係を理解するのは、到底無理だったに違いない。

日本人の結婚は、当事者個人のものでなく、家と家との結びつきだった。言わば社会的行為である。西洋のそれは、あくまで個人と個人の結びつきが核心で、人間的行為である。その違いは、社会性を重視するか、人間性を重視するかという、人間理解の深さの違いに由来する。

悲劇は常に自己愛から生まれる。キリスト教をはじめ世界宗教と呼ばれる宗教は、人間が自己愛というモンスターと闘い統御する為の支えとして発展した。特にキリスト教は、人々に神への愛を自己愛に優先させようと、宣教師達を世界中に派遣し、教化に励んできた。それでも、洋の東西を問わず、人々は自己愛を飼い馴らすことはできず、恋は日々に破れ、悲劇は跡を絶たない。愛することより愛されることを重視する限り、悲劇は続く。自己愛は人間存在の根本だから、何をもってしても、これに打ち克ち統御することは難しい。

恋は盲目」という言葉は、恋がエゴイズムであることを、ひと言で示すものだ。エゴイズムでは人は幸福になれない。それでも恋をしなければ、この世に生きる甲斐はない。

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