道々の枝折

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正義感

2023年09月17日 | 人文考察
正義感というものは「絶対的な感覚」である。「ほどほどの正義感」というようなものはない。
ところが面白いことに「絶対の正義」というものはない。正義は観念だからだ。観念は人それぞれ、正義は多様である。

観念に過ぎない多様な正義を定義しようとするから、間違いが起こる。定義できないものを定義しようとするのはナンセンスである。正義を口にするのが躊躇われるのは、人として正しい反応である。

人が声高に正義を叫ぶ時、碌なことが起こらない。正義を叫ぶ煽動家が跋扈し出したら、ファシズムに気をつけたい。ファシズムは正義を標榜する。
絶対的な正義などないことを肝に銘じておきたい。

正義感とは、単純に曲事(くせごと)・僻事(ひがごと)を嫌う感覚である。感覚だから、正義感というものは「ある」か「ない」かのどちらかである。
大概の人は、正義感を問われたら「ある」と答えるだろう。「ない」と答えたら、自ら人間失格を喧伝するようなものである。

正義感のある人が正義(らしいこと)を実行できるとは限らないし、正義感のない人が、正義(らしいこと)を実現していることもある。口で正義を言うは易いが、正義の実行には、多大な困難が伴う。
正義で飯は食えないというのが本音の社会である。本音と建前を使い分けないと生きにくい社会では、正義の実行に障壁が多い。

人は「正義感」という礎石を心奥に据えていなければ、自らの理非曲直を糺すことはできない。まして他者のそれをや・・・
この礎石が定っていなければ、風に吹かれる柳のように、人はその時々の事情、その場面ごとの状況に応じて、判断が変わってしまう。

正義感が人格と直結していることには疑いの余地はない。
自ら正義感を欠いていながら、他人の人格を云々することはできない筈だが、今日日、臆面もなくそれをSNSで繰り広げる人たちが跡を断たない。互いに誹謗中傷が止まらない。SNSならハードルが低いと感じているようだが、ネットに絶対的な匿名性がないことを忘れてはいけない。

しからばと、古典的に誹謗中傷の匿名葉書を送りつける後期高齢者も世の中には居る。
筆跡を偽装したところで、文面と趣旨・内容で何処の誰だか明々白々、容易にわかるのだが、本人は巧みに隠れおおせたつもりでいる。「語るに」落ちるということを忘れている。累ねてハガキを出せば、ますます差出人を特定するに足る証拠を固めさせることになるのだが、当人には其処が分かっていない。くせごとひがごと「天知る、地知る、我知る」であることを忘れてはいけない。

社会の木鐸であるはずの日本の新聞が正義感を失って久しい。それは、政治に義憤を感ずる読者が少くなっているということの証左である。
新聞社と雖も資本主義下の私企業だから、明治の草創期のように、理念を盾に木鐸を気取っているわけにはいかない。
新聞社も読者獲得・経営存続のためには、肚を決めるしかない。親会社の新聞社が肚を決めたなら、子会社のテレビ局も親に倣う。子会社としてスタートしたテレビ局は、皆巨大化して親より広告収入が大きくなっているが、親子関係は揺るがない。斯くして日本のマスメディアは、令和に入ってジャーナリズムを放棄してしまった。ジャーナリズムには、正義感が必須であるが、今は「ない」と答えるのだろうか?

正義感というものは、生まれつきの気性である。一本気で一途な気性。世に稀な気性である。


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