道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

人間らしい気持

2023年01月31日 | 恋愛
私たちは皆、人間らしい気持を保って日々を楽しく暮らしたい。美しいものを見たとき、美しい旋律や詩に触れたとき、美味しいものを食べたとき、知り合いと楽しい会話をしているとき、愛する者の傍らにいるとき、私たちは人間らしい気持に浸り安らぎを感じる。愛する者とは人に限らない。命あるもの全てが対象になるだろう。

恋している相手と居るときはどうか?というと、恋そのものが誤認や錯覚を伴う、直感的印象と本能的情熱の産物であるから、初期はときめいて幸福感に包まれていても、長く人間らしい穏やかな気持で居ることは難しい。恋人同士は、互いに苛立つことが多々あるものである。
人が恋をすると不幸になるのは、恋が動物的エゴイズムに根拠をもつからで、これが人間らしさを失わせる主因である。

とはいうものの、齢をとればとるほど、80歳だろうが90歳だろうが、人の恋情は熄むことがない。
それをストレートに表に出すのを潔しとしないところが私たち日本人にはあって、周囲の人たちもそれを知ると眉を顰める。
他人の恋に寛容でないのは、文化によるものか民族性なのか?日本社会が寛容性を誇るようになるには、まだまだ相当の時間がかかりそうだ。自然の情理に逆らう風習が多い。

かつて【岡惚れ】という記事を投稿した際に吐露したことがあるが、当時は歳をとってもいっこうに収まらない自分の岡惚れ癖に忸怩たる思いを抱いていた。だが今は、岡惚れは本惚れと違って些かも愧じることはないと思っている。岡惚れした相手に出会うと、ほのぼのとした気持になるからである。好かれて怒る人はいない。

恋は一過性のものだが、愛は継続するもの。恋は芽生えて成長すれば必ず枯れるものである。恋情は3年ほどで消滅するのが普通だろう。
相手をよりよく知り、より好く思われたい熱情が、却って恋の寿命を早めるのは、洵に皮肉な現象である。

英語の[love]の訳語として、明治期に「恋愛」の語が造られた。和製漢語である。それまでは、欧米人の「love」の感情は日本人に無いものだった。国民にその感情が無い場合は、該当する言語は無いと言ったのは森鴎外である。
「恋」と「愛」とを重ねて熟語にしたのは、恋だけでは心許なかったのだろうか?だが、日本語の「愛」は、欧米の「love」とは本質的に異なる感情の言葉である。

明治以後の日本人の恋愛観の混乱は、英語の[love] を恋愛と訳したことから始まったと見る。「恋」という歴とした感情とそれを表す日本語があるのに、それまで無かった「恋愛」という和製漢語をもっともらしく造り、[love]に当てたのが大間違い
造語者は、明確に異なる概念の「恋」と「愛」を、ひとつの言葉にして[love]の訳語に当て、文明開花と欣んでいたのだろうか?恋は愛に自動接続するものではない。欧米人はloveとaffectionを明確に弁別する。

「恋してる」と訳すべき[love]を「愛してる」と訳す誤用が、徒らに若い男女を事実誤認に陥れ、悲劇の種を蒔き散らして来た。日本語では、「恋してる」と「愛してる」では、その意味する内容に天と地ほどの違いがある。恋は感情だが愛は理性である。その質において、大きな隔たりがある。

だから若い人たちは、恋が失われても騒ぎ立てたり悲しむことはない。新たな恋はいくらでも芽生えるのである。
「たった一度の」とか、「これしかない」と思わせるのも、恋に付き纏う誤解の最たるもので、恋はその本質から言って無尽蔵なものであるから、嘆いたり世を儚んだりしてはいけない。

日本語の「恋」と「愛」の違いをよく弁別し、愛に繋がる恋を見つけてもらいたい。「恋」は必ず萎れ枯れるものだから、「愛」に繋がらないと見たら、惜しげもなく解消するのが正しい。努力でなんとかなるものではない。

家庭生活は男女の「恋」に始まることが多いが、家庭の維持には「愛」が絶対不可欠である。「恋」は家庭生活に必須のものではない。劣化しても消滅しても構わないものだが、「愛」は絶対に必要である。

夫婦から恋情が去っても、愛情さえ失われなければ、幸福な家庭生活は存続する。寧ろ家庭生活には、恋情は不要であることの方が多い。見合い結婚が存外上手くいくのは、この事情を示すものである。愛情だけが家庭を円満にし、家族の幸福を招くのである。




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