道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

カテゴリ「服飾」

2021年04月02日 | 自然観察
カテゴリを整理しようと思って開いたら、「服飾」の投稿がこれまでにたった2エントリーしかなかった。足かけ10年?で2件!これには愕いた。あまりに少なく、カテゴリを設けた意味がなかった。
服飾に関心がありながら、何故記事を書けなかったのだろう?

服装は容貌と同様、人文観察の上からは興味深い対象なのに、書くことがなかったのだろうか?そうでは無くて、何を書いても差し障りがあると思ったからに違いない。

他人の服装をどうこう言うのは、慎みのない下品なことである。はしたないことである。また自分の服装を話題にするのは、自慢めいてこれも鼻持ちならない。兎に角服飾は、論うことに向かないカテゴリだったのだ。服飾を楽しい記事の材料にすることができなかったということに尽きる。

私自身はというと子供の頃からの洒落者、自分の着る物にはこだわりが強くブランドには無関心、自分で選んだ衣服しか着ない。だが、自分で似合わないと思うものは、どんなに流行っていても身につけない。着ているものが人から見て芳しくなくとも気にならない。

世の中には服飾感覚に鋭敏な女性が非常に多く居る。夫や子どもが自分の気にいらない服装をすると、機嫌が斜めになる主婦がいる。お洒落な女性は兎角ヒステリー気味であることが多い。いやヒステリーだからお洒落なのか?

彼女の夫や子どもたちは、外出の都度彼女の顔色を窺い、着て行く服の許可を得なければならない。私はその女性の子どもたちが母親に「お母さん、これで好い?」と自分の服装をいちいち確かめるのを目撃して、気の毒でならなかった。

そう言えば、かつて服飾評論家といわれる人たちが、テレビで街行く若い女性たちの服装を評する番組があった。まことに傲慢不遜な客観性に欠ける批評で、いつも視聴するたびに不快な思いをした。

その評者は、タヌキのような風貌と体型をした男のファッション評論家だったと記憶している。テレビの権力をバックに言いたい放題、何の権利があって他人様の服装をそしったりけなしたりするのかと、苦々しく思いながら視聴していた。彼はコンプレックスの裏返しで、辛辣な批評をしていたのかもしれない。

総じて服飾評論家といわれる人たちに品位が感じられないのは、服装を論うという行為が、高尚な精神から発していないからではなかろうか?

服装のセンスに知性が反映することはたしかにある。センスの良い服装は目にして心地好い。しかし服飾センスは、知性の必要条件でもなければ十分条件でもない。

近く記事を他のカテゴリに移し、このカテゴリは消去することにした。
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