道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

出会い

2024年04月22日 |  山歩き

この世には、後から考えて、奇縁と云うか宿縁と云うか?不思議な出会いというものがある。青年期を過ぎてからでは滅多に得られない友人を得たのは、初老と言われる50代を目前にした齢頃のことである。

ある年の秋、私は幾度か山行を共にしたことのある知人と2人で、北遠のさる山に登った。
その山は、私は30代の頃に、知人はもっと早く高校生の頃から、登頂を念願していた山だった。
共に旧い案内書で知ったその山は、当時では人烟稀な秘境中の秘境、藪漕ぎに難渋する上級者向きの山と謂われていた。私も知人も臆してついつい登るのを躊躇い、時機を失していたのである。

登山道は思いのほか整備されていたので歩行は捗り、難なく目的の山への主稜線分岐に出た。目的の山はその分岐から3kmほど北にある。
密生しているはずの稜線道のスズタケは、綺麗に刈り払われ、我々は拍子抜けした思いがした。

ハイキング気分で稜線道を辿り、カエデが疎らに生える感じの好い小広場に着いた。其処は丈なすスズタケの薮に取り囲まれていて、展望はなかった。
コースタイムからすると、山頂に着いていておかしくない時刻だが、藪に囲まれた小広場の内には、山頂標識や三角点などは見当たらなかった。

小広場の中央部に先客がいた。我々よりも少し年若らしい男女のカップルで、ふたりは昼食の準備にとりかかっていた。邪魔をしてはいけないと思い、遠慮がちに「ここは山頂ですか?」と声をかけた。
男性が答えて、「私たちも標識を探したんですが、見つかりませんでした。此処が山頂かどうかわかりません」という返事だった。
我々には旧い記録の物凄い笹藪の山先入観があるので、きっとこの藪の先に山頂があるに違いないと推定した。

仲睦まじげな男女カップルに、大人気なくやっかみを感じた私は「こんな所が山頂である訳無いよなー」と、カップルに聴こえよがしな捨てゼリフを遺して、稜線が続いていると思われる辺りから闇雲に藪中に突入した。

踏み込んで愕いたことに、藪の中は急な下りになり、実生の広葉樹の若木が人の入る隙間もないほど密生していた。踏み跡や赤布などは見当たらない。
密林に進行を阻まれ悪戦苦闘するも一歩も前に進めなかった。すぐに我々は稜線ルートから外れて山腹斜面を下ろうとしていることに気づいたが、トラバースは不可能だった。実生林に成す術なく、我々は先刻の勢いは何処へやら、スゴスゴと元の小広場に引き返した。

おでんをコンロで炊いて食事を摂っていた先刻のカップルに「樹が密生していて進めませんでした」と告げた。男性は撤退を予想していたらしく、微笑を返した。先刻の憎まれ口が恥ずかしくなるような笑顔だった。

僚友に「メシにしよう」と声をかけ、カップルから少し離れた場所に腰を下ろして弁当を取り出したとき、男性が、ボウルに入れたおでんを「つくり過ぎたので、よろしかったら食べてください」と持ってきてくれた。肌寒さを感じる季節には、嬉しいご馳走である。バツの悪い思いを抱きながら、僚友とふたり熱いおでんに舌鼓を打った。

食後、我々は小広場を囲む薮を改めて念入りに調べてみた。藪に微かな獣道のような踏み跡を見つけ、それを辿って行くと、その踏み跡は次第にハッキリして来た。2・30mほど先に小さなコブがあり、山頂標識が立っていた。北西に展望が開けている。

早速とって返し、カップルに山頂を見つけたと報告した。先刻の雑言への反省と一飯の恩義に報いたい気持ちがあった。
カップルも欣んでくれたので、標識を背に彼らのスナップ写真を撮った。
写真の送り先を教えてもらい、後日の送付を約して、我々はひと足先に下山した。

写真を送って後に判ったことは、このカップルは夫婦で、私と同じ市に住んでいた。私は端から不倫の登山者に違いないと想像を逞しくして、やっかんでしまったようだ。

夫婦でない男女が、大っぴらに異性と歩いたり食事をするのに、登山ほど恰好なものはないだろう。開放的な山の自然は、相思のカップルには殆ど聖域である。下界の知人に会うことはほとんどないのだから、人目をしのぶ必要はない。
山に来るのは、自然を愛する人間ばかりとは限らない。中途半端なケシカラン輩たちも、山好き・自然愛好という錦の御旗を押し立て登って来るのである。私は度々そういうカップルと山小屋で遭遇したことがあった。

その後、私の方からご主人を誘い、南ア深南部の黒法師岳に登った。以後、南ア深南部や安倍奥、南アルプスの山々への登山を繰り返した。幕営地では酒を酌み交わしながらの歓談に時を忘れ、次第に肝胆相照らす間柄になった。齢をとってからの親交は、それまでの社会経験が互いの理解の扶けになることを知った。

ウマが合うというのだろう。自然、特に植物に興味が深く、芸術全般に造詣が深い人だった。何よりも卓れていたのは、誰に対しても誠実であることだった。年齢は私より5つほど若かったが、敬服するところが多かった。何せ私は、最初の出会いで、揣摩臆測という欠点を曝け出してしまっていたので、格好のつけようがない。あるがままの自分を丸出しに出来た。以降山行は、春夏秋冬20年を超えて続いた。

ある年の冬、ふたりで積雪のある北遠の山に登った後の彼に、病が見つかった。それに応じて、療養中は低山歩きに切り替えた。数年後、山歩きを続けることは無理とわかって、滋賀県の「古代史探索」を提案したら、快諾してくれた。その頃の彼は、隣県に居を構えていたので、交通アクセスの良いJRで米原まで行き、其処を拠点に湖岸の史跡を探訪するのが佳いと思った。
私が始発の電車に乗り、途中で彼が乗り合わせ、近江の史跡・遺跡を見て帰る日帰り行を累ねた。対象が山頂から史跡に移ったものの、我々の行動は山行の延長のようなものだった。

数年に亘る療養の後、新しい薬剤による治療の為の入院を数日後に控えたある朝、目覚めた彼は体調の異常を夫人に訴えた。入院予定の病院に救急搬送されたが、そのまま還らぬ人となった。

30年に満たない親交だったが、彼の人格と識見、学殖にはいつも感服していた。気さくで親しみ易い人柄と稚気溢れる好奇心は、滅多に見受けないものだった。人が存在すら知らない小さな花を撮るため、地面に張り付くようにして撮っていたいた姿を思い出す。
酒に強く、特にワインが好きで、フランス映画にも造詣が深かった。文芸についての核心を衝いた批評には、いつも教えられるところが多かった。年若ながらまさに畏友だった。

それぞれの任意の山行が、双方を結びつけてくれたとしか思えない。どちらかが山に登らない人間だったら、出会いは無かったのである。
奇しくも私が生まれて初めて山登りを覚えた山が、彼にとっても私にとっても、最後の山となった。運命というものの不思議を思わない訳にはいかない。












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