道々の枝折

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頼朝の光と影(その4)

2022年06月10日 | 歴史探索
頼朝は御家人が幕府の推挙を介さずに位階・官職=官位に就くことを許さなかった。官位を武士に直接与えることで、武士らの猟官意欲を利用し影響力を行使する、後白河法皇の関与を遠ざけたかったのである。
義経は法皇に左衛門少尉に任ぜられ、検非違使を拝命して墓穴を掘った。

奥州合戦の後、頼朝は御家人たちの論功行賞すなわち藤原氏の旧領分配において、朝廷が知行に介入することを許さなかった。奥州征討28万人の示威の効果は抜群だった。さしもの後白河法皇も、頼朝の奥州仕置には一切容喙することはできなかったのである。頼朝は御家人が国司・受領になることも原則として禁じている。

さてここからは、例によって歴史素人の老生が想像を膨らませた妄断陋説になる。

奥州合戦から遡ること430年、聖武朝(749年)の大事業【大仏建立】において、朝廷は鍍金用の黄金に窮した。いよいよ困って、唐の支援を仰ごうと使者を出す寸前、陸奥の国司〈百済敬福〉が陸奥の砂金33.75kgを献上した。聖武天皇は歓喜した。献金は以後10年に及び、朝廷の財政を潤し、陸奥は国内有数の産金地として国中に知れ渡った。以後朝廷への黄金の献納は続く。

平安時代に入ると、東北経営に積極的な朝廷は蝦夷の領域を圧迫し、これに抗する蝦夷の叛乱を招いた。
坂上田村麻呂の征討も各柵の建設も、詰まるところは入植目的というより、蝦夷の支配地域に散在する産金地を奪取し支配することが狙いであったと見ることができる。

朝廷は、前九年役で陸奥国の〈安倍氏〉を、後三年役で出羽国の〈清原氏〉と、蝦夷俘囚(帰順した蝦夷)に出自をもつ奥羽の2大豪族を滅ぼした。
陸奥藤原氏の出自は定かでないが、清原氏との婚姻関係があり、その血を引く〈清衡〉の時に朝廷の信任を得、覇権を陸奥国に確立する。
藤原氏四代の栄華と朝廷との結びつきの深さも、累年の献上砂金や北方交易での珍貴の品々にあったと見ることができる。

頼朝は滅亡した藤原一族から、金鉱山など産金施設を接収した。ここで、股肱の臣〈安達盛長〉とその息子2人が登場する。
頼朝は、新恩給与の形で、陸奥国安達郡を盛長の長男〈安達景盛〉に、出羽大曽根荘を次男〈安達時長〉に与えた。本貫地の無い安達盛長への恩賞である。

頼朝は、陸奥国の産金の管理と鎌倉への金地金輸送の任務を安達景盛に当たらせる一方、砂金が枯渇し始めていた陸奥に替えて、新たに出羽国での金鉱山開発を安達時長に期待したのではないか?奥羽の産金に関する情報は、側近中の側近、安達盛長・景盛・時長親子の外に知る者がいない体制を整えたということになる。

頼朝政権下での奥羽の産金は、陸奥の安達郡を領する〈安達景盛〉を経て、比企尼の甥で頼家の岳父でもあった〈比企能員〉の元に送られ、隠匿・管理された?比企氏の本拠比企谷(ひきがやつ)(鎌倉市大町地内)の何処かに、内密に比企氏によって厳重に保管された奥羽の金は、頼朝後の累代源氏嫡流のいざという時の隠し軍資金である。頼朝の、子孫の為の私的財産の管理体制は、このように整備されたと推測する。

これが、頼朝自身の身に暗殺(毒を盛られ落馬した後に死亡)の謀略が及び、頼家・実朝の横死を招き、比企一族の全滅に繋がったと考えている。
頼朝の死因は、解明されていないが、落馬の後に病臥に臥せって死亡したと伝えられる経緯は、毒物の使用を疑わせる。

諸般の情況から、頼朝・頼家・実朝暗殺の黒幕と、比企一族誅滅の策謀者は、北条時政・義時父子しか考えられない。動機は頼朝の北条一族に対する処遇の不満であり、目的は奥羽産金の横領である。いや、時政・義時に横領の負い目はさらさらない。当然に北条氏が配分に与るべき正当な財産と考えていただろう。

北条一族による源氏嫡流の私的隠匿財産の横領は、秘密裡に行われたが、有力御家人たちは事情を知悉していて当然だった。実朝暗殺後に始まる北条氏の御家人粛清は、奥州産金の分与に与ろうとする有力御家人たちと、北条政権の財政基盤を守ろうとする北条氏との暗闘だったと考えている。

得宗家という、特異な言葉の意味を史家は見落としてはいないか?得宗とは普通名詞・一般用語ではない。北条氏のみに用いられた特異な語である。徳宗の当て字などとも言われるが、当て字を使う意味に合理的説明がない。

得宗とは、時政の嫡子で〈石橋山の合戦〉で討死した宗時を継ぐ者の謂であであると私は考える。
時政はこの語を用いることに強く執着したに違いない。老いの一徹、「宗時を忘れるな!」ということである。この強引さには、義時も政子も他の北条一族も、承服するしかなかったろう。その結果、得宗家の用語は、北条氏の総領家を指す言葉として定着した?
時政が継室牧の方共々、鎌倉から伊豆へ放逐されるのは、誰もが防げなかったろう。老人の我執は、孤立しか招かない。

今回をもちまして「頼朝の光と影」は完結です。老人の妄説にお付き合いくださいまして、洵に有り難うございました。








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