滋賀県野洲市では、今年の4月から市内3中学校の生徒の制服について、従来の男子の詰め襟、女子のセーラー服をやめ、男女兼用のブレザーに変更することを決めたそうだ。性別に関係なく、誰でも自由にスラックスやスカートを選べるようにし、心と体の性が一致しないトランスジェンダーの生徒らにも配慮したという。
男子がスカートを選べるという意味が理解出来ない。トランスジェンダーは外に表示する必要もなければ、まして強調したり誇示するものでもない。男子はズボンのまま、女子はスカートのままで問題ないのではないか。形に表す必要を感じない。
老生は中学・高校の詰襟・セーラー服の廃止には大賛成だが、制服からの解放を飛び越して、トランスジェンダーへの適応を顧慮しての制服改革という発想には理解が及ばない。
制服というものは、先ず軍隊にその必要性があって、世に始まったと思う。敵味方を識別して同士討ちを防ぎ、指揮官は部隊の配置を視認して戦況を知る。更に軍紀の厳正を維持するためにも、制服の効果は大きかったろう。
様々な事情があって、軍隊という集団に採り入れられた制服は、時代が下るにつれ集団行動を伴う他の集団組織や団体にも採用された。
中世にはキリスト教の修道院で求道する修道士・修道女も、定められた服装をするようになった。俗界との縁を絶ったことを自他に明認させる必要があったのだろう。何処の民族も、聖職者は一目でそれとわかる服装をする。
厳しい禁欲が求められる宗教にあっては、修道者は修道院に入り、家族を含め一般人との交渉を断つ。それでも修道者が異性と交際する可能性は排除できない。修道者の服装は一般人と明らかに異なっている必要があったのだろう。
制服に風紀紊乱を防ぐ目的があると分かると、制服に性徴を成る可く隠す意匠が採用される意味がわかってくる。特に女子学校での制服にはこの目的が大きく、可及的異性の目を惹かない意匠の制服が考案された。昭和の頃までの全国の女学校・女子高校のほとんどは、異性を挑発しない制服の意匠に、異常なまでの意欲を傾けたのではあるまいか?
制服には、表向きの存在理由と別の、隠された目的があったと見て間違いないだろう。日本の学校制服には、思春期の男女生徒が服装で異性にアピールすることを抑止する大きな目的が隠されていたのだった。
年頃の男女というものは、放っておけば、あらゆる手を使って異性にアピールするに吝かでない。
風紀紊乱は為政者・教育者・管理者たちの最も嫌うものだが、若い男女には風紀にやかましい大人たちがお節介者と映る。
そこで学校は、学徒が異性にアピールすることができないよう制服を定め、着用を義務づけた。
異性に対するアピールを禁止する目的が隠された制服の効用を理解すると、いまだに古い軍服の意匠に似た中学・高校の男子制服及び女子セーラー服(これも海軍水兵の軍服の意匠)が廃止されない謎が氷解する。いったい誰の意思だろう?生徒か?父兄か?学校か?・・・
性欲の発現を、故意に遅らすことに腐心した旧い日本の道学者・教育者たちの人間理解の浅さが嘆かわしい。
西欧社会を初めて知った明治の有識者たちが最も怖れたものは、性の自由、性の解放だったのだろう。儒学・国学の文化の物差しでは、人間性への理解はいつまで経っても進化しない。
アメリカの公教育の場に制服は無いらしい。ヨーロッパでも私の知る限りでは、同様のようだ。世界の標準から見て、生徒への制服強制は、そろそろ已めにしては如何だろう。