道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

偉人・英傑は後世のもの

2018年06月05日 | 随想

今年は明治150年にあたるそうだ。

若年の頃から明治維新は日本の夜明けと教えられ、疑うことなく老年に至った。遅きに失したというべきか、この国の本質が理解できるようになって漸く、教科書的な歴史解釈に疑念を抱くようになった。

幕末の志士をはじめ維新の元勲や功労者を、偉人や英傑として顕彰する書物が書店の棚を賑わしている。維新の10傑、就中3傑の功績や人となりは人口に膾炙し、島津斉彬、坂本龍馬、高杉晋作など、倒幕・維新を見ることなく世を去った功労者を惜しむ人々の気持ちは強い。しかし、彼らの評伝には潤色や誇張も多く、必ずしも事実を伝えているとは限らない。

明治維新が偉業・大業であったという理解は、一面的でありすぎる。明治維新後の日本は、局地戦とはいえ当時の軍事大国ロシアに勝利するという予想外の成果に恵まれ、ナショナリズムの勃興を招き、中国との戦争を惹起した。軍国主義への傾斜は、後の連合国に対する無条件降伏という悲惨な結末への序章であったとも言える。

幕末維新の時に、優れた人物が多数この国に輩出し、彼らによって未曾有の国難が回避され、近代国家の創設と発展の礎が築かれたと一般には理解されているが、果たしてそうだろうか?

明治維新は、徳川幕府の封建体制を支配していた武士組織(将軍家)に対抗する別の武士連合組織(反徳川家諸大名)による単なる政権奪取活動で、民衆に時代の転換と新しい政体を認知させるために、どうしても戦争が必要だった。大政奉還・公武合体の無血革命では論功行賞ができないから、ドンパチが必要だったということである。人を褒賞するには、戦争の勲功が人々に最もわかりやすい。

そもそも戊辰戦争は、鳥羽伏見の遭遇戦に始まる偶発戦争であって、世を改めるために周到に計画され準備された戦略があった訳では無かった。また、その維新のイデオロギーも、国学に依拠する偏狭な尊王攘夷思想でしかなく、民衆や社会改革への理念は一切無かった。

維新は肥後熊本藩の思想家横井小楠が青写真を描き、西郷隆盛が実行したと言われるが、それは後付けの説明だ。政治に青写真なぞは描けない。行き当たりばったり、出たとこ勝負が政治の本質である。無学な者が政治家として君臨し、権力の階段を駆け上がることができるのは、権力闘争の世界の政治には、切った張ったの部分があるからであろう。政治は数の多きを恃むもの、常に好機を生かさなければならないものである。成功した政治家が機会主義者だったことは人を納得させる。

官軍の関東・奥羽遠征は、当初は戦費の手当てもない、泥縄式の作戦だった。たまたま鳥羽伏見の戦いに勝利し、将軍徳川慶喜の江戸への逃走という敵失もあって、あれよあれよという間に官軍優勢となり、一気に改革のデモンストレーションが成立した。薩長軍は奇貨をものにしたのだった。

戊辰戦争以前を共に生きた人々は、西郷隆盛・桂小五郎・勝海舟・大久保利通・岩倉具視らを偉人などとは評さなかっただろう。彼らより前の時代の、既に評価の定まった偉人と比べれば、心許ない存在だったに違いない。

傑れているとされたのは、後の世の人々が、輝かしく粉飾された勝者を見て読んで評価するからで、同時代の人々には、彼らは海のものとも山のものともわからなかった。中には食わせ者と見做されーちゃんた者もいたかもしれない。

実情は、時代が有能無能取り混ぜて彼らに出番を数多く与え登場を促し立役者にしたのだ。登場の場を与えざるを得なかったというべきだ。下手な役者でも舞台に上がるチャンスが多ければ、人々の目にとまる。多摩在の田舎剣客、近藤勇・土方歳三も、時代が登場を促した。長州と薩摩だけに有能の士が特別多く生まれたわけではない。

長州と薩摩の二藩だけが、この国で初めて、圧倒的に戦力の差がある欧米の艦船と砲火を交えたことは、特筆に値する。特に長州はそれに先立って幕府の追討を受け、藩が存亡の危機に立たされていたから、多数の武士や領民が奮起し活躍したのだ。窮地に立たされれば、何処の藩でも有能な人物は現れる。

江戸時代末期の幕府・朝廷・西国雄藩から成る日本の統治機構の三つの権力は、黒船の来航によってそれぞれがこの国の将来を見透す眼を失い、機構の改革、再編を余儀なくされた。

何処の国でも、先が見透せないときには、旧来の統治機構を支配していた重鎮たちは表に出ず、有能な軽輩・若輩たちにある程度権限を与え、その知見と行動力を利用する。やってみなければわからないことは、失敗の確率が50%あるから、旧来の支配階層は手を出さないものだ。

歴史には節目があって、国に事件・事変が頻発するときには、それにあぶり出されるように、事に当る人たちが増え、否応なく入れ替わり立ち替わり表舞台に立って行動し、嫌でも人々の眼に留まる。勝海舟、小栗忠順、川路聖謨、西園寺公望、三条実美、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、広沢真臣、桂小五郎その他多くの人々が時代の立役者として登場した。

傑物が輩出したのではなく、演目が多くあって、舞台に上がるチャンスに恵まれただけのことである。激動する世の中が、機会に賭けた人々を時代の表舞台に押し上げ、世人は彼らのパフォーマンスを知る機会が多かったというのが、偉人達のリジェンドができあがる背景である。

時代が平穏無事であったなら、幕藩封建体制の強固な世襲身分制の下では、いかに若く傑れた人々と雖も、発言力をもたない圧倒的多数の中に埋没してしまったに違いない。

世の中が落ち着き、人々が平穏に暮らす時代には、為政の舵取りは誰がやっても比較的容易である。旧来のエスタブリッシュメントでも運営できる。未曾有の荒天の中で船を操るには、経験と知識以外の何かが求められる。チャレンジ精神とか、冒険心とか、射倖心とか・・・。

例えば、明治の元老になった長州藩の伊藤博文、山縣有朋のふたり。先輩達が若くして亡くなったり、失脚していなくなり、それぞれ行政と軍事の分野において立役者になる場面がタイミングよく巡り来て、彼らの地位を押し上げた。

明治の初頭、伊藤と山縣は交代で総理大臣を務め、権力の独占を図った。ふたりは政治家の才能を開花させたが、それがこの国にとって良かったかどうかは疑問である。

偉人創生には、自己愛の問題もある。人には自己愛があって、家族愛・同胞愛・郷土愛・愛国心も自己愛の延長上のものと見ることができる。郷土出身の偉人を顕彰する気持ちは、スポーツで郷土チームや郷土出身選手を応援する気持ちと変わらない。郷土の人を偉人に仕立てたい気持ちは、郷党意識にはつきものである。

幕藩時代に培われた各藩の過当競争による偏狭な郷党意識が、中央で活躍した郷土出身の人物を異様なまでに讃え崇める慣習を定着させた。これは現代人が、欧米で活躍する日本人を異様なまでに称賛するのと変わらない。

その郷党意識を強くもっていたのが西郷隆盛で、彼は薩摩藩の旧士族の救済には格別熱心だった。しかし他藩の旧士族の救済には案外冷淡だった。明治維新の官僚の大半が薩摩人それも武士身分だったのは、彼の力に負うところが大きいといわれる。

木戸孝允と袂を分かつのも、それが原因のひとつであり、結果として西郷は政権にとどまることができず下野する。彼が今も鹿児島の圧倒的偉人であるのは、彼の人間性もさることながら、薩摩人に共通する、島津藩政のもとで培われた郷党愛、郷党第一主義に負うところが大きいのではないか。

更に時間の経過が研究者を累積的に増やすことも、偉人創出に寄与する。後世の人々が、過去のある限られた時代の事件・事変を検証、研究することが多ければ多いほど、当時の事件・事変の登場者たちは脚光を浴び輝き続ける。死後も書物になって人々に触れ生き続ける。研究が研究を呼び、論考の輪が広がれば、彼の名声は時代を累ねるにしたがって高くなる。

偉人・英傑というものは、時間のエスカレーターに乗っているうちに名声が高まった人たちである。皆が皆突出した能力に恵まれ、世を動かした訳ではない。時代とその後の現象が偉人をより高みに押し上げ、幾世代かを重ねるうちに盛名は遍く知られるようになる。時代を経るほど評価が高まるのは、研究し評価する人間の数が時代と共に累積するからに外ならない。

また、一旦偉人像が世に定着し、業績が通説として信じ込まれると、それを覆すことは至難である。もし通説を覆す史料が出てきたとしても、人の習性というものは、既に定着した先入観念を換えることを嫌うようにできている。変節を避けたい本意がある。

自ら調べることは不可能だから、真実かどうかの判定は、それまでに経過した時間の方に歩がある。かくして、偉人伝説という、万人が納得する歴史の虚構ができあがる。歴史的通説には、潤色や誇張があるのが当然と見て、個々の歴史上の人物への傾倒を抑制する姿勢を保つことが、歴史認識の上で大切な心構えではないだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« キキョウとシラサギカヤツリ | トップ | 梅雨入り発表 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿