中国の春節、日本のゴールデンウィーク、欧米のバカンス。どこの国でも、年に一回は、国中の人が大挙して国内外を移動する。どこへ行っても人、人、人の海のまっ只中、例年この光景は繰り返される。
人間は大勢がすることには無批判で参加するものらしい。大勢に順応することで、安心と満足が得られるのかと思う。
人は本能と生活と教育により、成長するに従い、知らず知らずのうちに多数に迎合し大勢に靡くよう馴致される。大勢の進む方向に足を向けたくなる。皆と同じ方向に進んでいると、安心が得られるのである。大勢と反対の方向に向かうのは、大きな不安が付き纏う。
多数の側に居れば人生は安泰などと思いこむのは幻想であろう。生老病死はどこまでも、個の人生である。
人は大勢の人と違う生き方をすることには不安が付き纏うので、他人と同じことをしたいのである。安心を同調で購って平穏に暮らしているとも言える。
全ての人に共通する最善の処世マニュアルなど、あるはずはない。自分のマニュアルは、自分を1番よく知っている自分自身でつくるしかないのだが・・・
社会は価値観も能力も千差万別の多様な人々で成り立っている。しかし、いつの時代でも社会は、自律的に正しい進路を取るようプログラムされてはいないし、どんなに秀れた制度や組織も劣化を避けられないものだから、社会の進路は真っ直ぐでなく曲折しているものと理解するのが正しそうだ。多数に迎合し大勢に従っていても、正しい進路を歩めるとは限らない。
大勢と進路を共にせず、自らの指針に従って進路を修正したり改変することが、個人の人生にはどうしても必要な時がある。それこそが、社会に適応して生きるということである。
ファシズムと共産主義が、いかに個人の自由すなわち自主性を奪うものか、私たちは現実にも歴史的にも目の当たりにしてきた。資本主義といえども例外ではない。
生身の人間をロボット化するようなシステムは、それがどれほど経済効率を高めるものであっても、容認できるものではない。人権というものを念頭に措かないイデオロギー、政治システムは、人間社会に幸福をもたらさない。
私たちがもし、顧みて他人と極めて酷似した日常生活を送っていたら、それは社会の同調化・同質化の作用を受けて自分らしい生き方を見失っている証拠である。社会に同調して自己を失う生き方は、自分の為にならない。たとえ同調によって不安を感じることなく、安心していられるとしても、その代償は大きい。それは人と似た生き方を優先して自分らしい生き方を放棄してしまうということである。人は皆、他の人と似ていない、その人ならではの生活を確立べきである。
人は生まれてきた以上、自らの目で見、自らの耳で聴き、自らの考えで生きなければならない。誰か他の人の考えを信奉したり、大勢の人たちの最大公約数的な考え方に流されて生きることは、主体性を放棄した生き方である。それは自らの固有アカウントをもたないで、その場その場に合う自動変換アカウントで世を渡るようなものである。それではその人のアイデンティティは確立しない。
自らの固有アカウントをもたない人生は虚しい。それを感じさせないために、この世には数限りない娯楽・歓楽・享楽がある。
熱狂と喧騒を離れ、冷静になりさえすれば、人はいつでも自分の固有アカウントをつくることができる。
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