40年前の初めての海外出張の7回目。
ここは調査団の副団長で旅行の前半にツィンで同室だったその分野のボス教授の話、それから総括を書きます。
4 ボス教授とのおつきあい
この調査団の旅行では、オポルトにつくまではコスト低減のためかホテルはツィンに2人同室であった。その同室相手がさる大教授であった。 多分彼が煙たくて、何も知らずに参加した一番若輩の私が押し付けられたと思われる。実際にドイツへ行くまでその先生が重要人物であることを知らなかった。
でも、ご一緒させていただき非常に勉強になったので、そのいくつかを紹介する。
(1)旅行の荷物
彼の荷物は、私の半分以下であった。やや大きめのボストンバックで、この長期の旅行を軽々とこなしていた。
それは以下のような工夫による。
・毎日の下着等の洗濯
・旅行を前後期に分け、後期分はホテル(オポルト)に事前送付。
・入手した資料等は、すぐ日本国内に郵送。
ともかく、大先生が毎夜、パンツを洗っているのには、非常に感慨深かった。
(2)仕事のやり方
彼は学会から出張報告書を請け負っていた。
ヨーロッパ到着の最初の夜に、彼が一生懸命電話をかけてメモを始めた。何かとおもったら出張報告書のネタで、次の日にはそれがほとんど完成していた。
日本で全体構成を作り、ヨーロッパ到着後に訪問対象の人に電話をかけて話す内容を確認して書き上げてしまうとのこと。(ヨーロッパについてからの電話は、時差への配慮と電話料金)
彼によれば、事前に訪問場所で注目すべきこと、また会うべき人と話すべき内容を書いてしまえば、後は意外性のあることのみにアンテナを張ればよいし、またかっこよく会議等で質疑応答ができるでしょ、というわけです。
また国際会議の分科会のチェアマンでありまた副調査団長としていくつかの訪問先で挨拶をする役割を持っていたのだが、夜は綿密に挨拶の練習をしていた。特にこだわっていたが、何処に現地の言葉(スペイン、フランス等)を取り入れて親近感を持たせるかで、彼が海外で評価が高いのもうなずけた。なおその言葉は、ガイドや旅行添乗員、時には電話で失礼に当たるかどうかをチェックしていた。
現在はE-mailやzoomがあり海外とのコネクトは容易になったが、えらい人のこの見えない準備(私には舞台裏を見せていただいた)はすごいと思った。
(後におつきあいしたアメリカの有名教授も、丁寧にあいさつや発表の練習をしていた。)
(3)自由行動
自由行動では、特にスペイン、ポルトガルでのお付き合いが楽しかった。
彼は英語と独語は話せるがさすがにラテン語系はだめだった。しかしガイドからその土地の安全地帯を聞いた後、6カ国語会話の小冊子を手に持ち、日本人数人だけで食事やショッピングに行った。
英語が通じないとなると、食事、ショッピングともに小冊子指差会話を始めた。それでちゃんと意志を通じさせた。 特にショッピングが楽しくて、日本の空手チャンピオンであると型を見せて、ごまかしたらやっつけるぞと値切っていったが、売り子さんも楽しんでいろいろサービスしてくれた。
先日のオポルトでの食事の注文もこれに刺激を受けたけれども、会話の小冊子を持っていなかったのでああいったこととなった。
<ボス教授と革製品を買いに出かけたオポルトの街並み>
<革製品の販売店のショーウィンドウ 靴がメインだった>
以上のように、ちゃんと工夫すること、またちゃんと準備すべきことはやった上で、せっかくのチャンスを思いっきり楽しもうとするやり方は、非常に参考になった。
しかし、あの頃の彼の年齢を通り過ぎてしまったのに、彼の見せてくれたことの数分の一もできていないことが残念である。
彼との話で、日本の地価が上昇しつづけるということだけが、私と意見が異なった。その後バブルがはじけ、彼は土地投資でかなりの損を発生したと噂に聞いたが、幸せな老後を過ごせたのだろうか。
ツインで同室中は、先生は構わんよと言ったが、バス、トイレ、部屋の整頓など非常に気を使った。でも私にとって先生とのおつきあいは、非常に大きな財産となった。
5.総括
この旅行は私の会社生活にとって最も有益な時間となった。この後会社では波乱万丈が続くのだが、この旅行や、以前書いた大学への派遣というチャンスをいただいたということで、かなりのことは我慢しようという気持ちになった。
今回はちょっと時間があったので、ずっと思い出に残っているこの旅を書きだしてみた。そしてやはり、いい経験だったと実感した。
この海外出張で得られたことを下記にまとめる。
(1)海外旅行のリスクと楽しさを実感した。
・リスクについて
一通り、海外旅行で起こりうるトラブルを見ることができた。
そしてそれを防止もしくは減災できる基本的な対策について考えることができた。
・楽しさについて
旅で出会う楽しいことに一通り出会うことができた。
調査団員それぞれの楽しみ方を知ることができた。
楽しむためには、努力が必要なことが分かった。
これらは、その後の海外出張、家族旅行でとても役立った。
(2)その後の仕事のやり方などで多くの非常に参考になることがたくさんあった。
①調査団の特に企業メンバーが素晴らしかった。
調査団の企業参加者はその企業を代表しているという意志を持っている人ばかりで、貪欲な知識欲、かつうまい質問をする人達であった。研究所や見本市の見学にくっついていて、耳をそばだてているだけで、一番若い私としては得をした。
②調査団長、副団長の教授の、海外の人への対応は勉強になった。
副団長はくっついていてわかったが、団長のふるまいも立派だった。
大学気分の抜けなかった私も大物教授の所以がわかった
③熱意があれば下手な英語でも伝えることができることがわかった。
国際会議、企業でのディスカッションが、一生懸命話せばなんとかなった。
ただしこれでくそ度胸がついて、その後の英語がいい加減になったかもしれない。
(3)なにが起こっても、驚かない。
旅のトラブルとリカバリー、その時の団長/副団長の落ち着いた動き、またこの出張の個人の目的である国際会議発表と技術調整がなんとかできたことなどから、何があっても驚かずに基本から考えてみようと思うことにした。
この海外出張でこの分野の重要人物と知り合うことができ、また海外の動向の知識も得た。私はそれを活用して当面この分野で仕事するものと思っていたし、調査団参加者も学会などで、そのつもりで対応してくれた。
ところが1年後、ここで知り得た知識や人脈が全然使えない部署に異動することになり驚いた。会社の誰にとっても新しい仕事だからしょうがないけれども・・・。 でもこの時でも、この出張で得た考え方のパターンを使うことができた。ただし、あまりにも驚かないと頑張ると死にそうな状況になってしまうことがあったので、加減も必要ということも後で学んだ。
そしてその後もなんとか生き抜いて、現在がある。
なお調査団の人たちにとっても、私の1年後のその分野からの消滅は驚きだったとのこと。そしてそれから25年後に仕事の関係で、いきなりその分野に姿を現すことになった。その時の調査団の人で、まだその分野で現役だった3名の人が声をかけてくれた。そしてリスボンでの野宿の覚悟や、オポルトでのグリーンワインの美味しさの話で楽しんだ。