鑑賞場所:伏見ミリオン座
鑑賞日:2024年9月9日 (昭和99年9月9日とのこと)
監督:アンヌ・フォンテーヌ
キャスト:ラヴェル:ラファエル ペルソナ
ミシア:ドリヤ テイリエ
イダ:ジャンヌ バリバール
概要
モーリス ラヴェルの伝記映画で、特にボレロ作曲の状況を詳細に描いた作品。ラヴェル作曲の音楽がたくさん使用されている。
・・・と書くのではなくて、多分「ボレロ」というクラシックの中での怪物曲が、こんな履歴や家族・知人環境にある変な人によって、どういった周辺条件のもとで生み出されたか、曲と作者自体のその後の関係はどうだったかを描いた作品。
感想
1.全般
久しぶりにフランス映画を見たと思った。
ラヴェルと幼馴染で結婚したかもしれない女性のミシア、ラヴェルに曲を依頼したダンサーのイダ、そして風俗店の女性たちやお手伝いさんなど、時々男性の友人との対話が、抑揚のないフランス語で淡々と続く。
その中で、ラヴェルの天才性、でもそれにもかかわらず大賞を得られなかった挫折、女性への臆病さ、高齢なのに敢えて戦場へ向かったこと、母との死別、身体の不調に耐えての米国演奏ツアーと成功、ボレロ作曲前のひどいスランプ、仕事に律儀なために追い込まれていることなどが語られる。女性への対応などはフランス的説明不足があるとおもうが、フランス語のあたりが心地よい。
そうして彼、および周辺の人たちがチェーンスモーカーのように煙草を吸う。別荘など、建物の外の美しい開放的な風景と建物内の紫煙渦巻く空間が積みあがってゆく。そこに贅沢なラヴェルの音楽。
内容の細かなところはともかく、フランスらしさ、女性監督ならではのきめ細やかさを感じた2時間だったので、満足としよう。
2.ボレロについて得られた知識
この映画、そしてその後にWiki等を調べたことでラヴェルという人、ボレロという曲に対して新しい知識を得た。ラヴェルがあんな悲惨な死であったことは知らなかった。ラヴェルについて書くと、映画のストーリーになってしまうので、ボレロに関わる知識について書いておく。依頼を受けたのは、第一次世界大戦/アメリカ演奏旅行を経て、病が出始め作曲がスランプに陥った頃だった。
(1)イダ・ルビンシュタインは、ボレロの曲の官能性を魅力として曲を頼んだ。ただし彼はその特性を認めてはいなかった。
(2)注文を受けたスペインに関わるバレー曲として、ラヴェルは他人作曲の編曲で片付けようとしたところ、権利が他人にあったので、期限ぎりぎりで方針転換をして、短期集中で作曲した。
(3)演奏20分の希望を、17分に値切った。そしてラヴェルは基本テーマの1分を17回繰り返すことを考えた。
(4)ラヴェルは、ボレロの曲のリズムを工場の機械音がかさなっている状況をイメージしており、ダンスもそういった背景にしてもらえることを期待した。ラヴェルは、テンポを最初から最後まで一定にすること、そして全体にクレッシェンドを継続することに徹底的に拘った。(ボレロはスペインの3拍子を基本とするダンスのリズム)
しかしイダは、彼女の最初の方針どおり、娼婦宿の雰囲気でのダンスとした。
そのダンスは、現在のベジャール振付のダンスに近い。
(5)それに対しラヴェルは怒ったが、自分の音楽に官能の要素があることを認識し受け入れた。
(6)イダとの契約は1年で、その後オーケストラが一斉にボレロを演奏しだしたので驚いた。自分が病によって新しい作曲が困難になっていたこともあり(記憶障害、第一次大戦前は多量に作曲していたが、ボレロ以降は3曲しか書いていない)、自分のこれまでの曲がこのボレロという曲に飲み込まれるのではと、憎んだ。
3.おわりに
最後にラヴェルが自分の人生を載せたかの様に、オーケストラでボレロを指揮する。その時ブレイキングの動きも入れた黒人男性の疾走するダンスが重なる。このダンスもよかったが、ラヴェルがイメージしたという工場でのダンスにしてもいいとおもった。
(監督の考えは、「官能性」の少ないスポーツ的なもので表現したいと思ったのかもしれない。でもラヴェルのイメージは機械が入ることによる製造革命を
表現したかったはず。
この曲はそれぞれの気持ちを重ねやすい。
そして演奏するほうも、ソリストはくっきり役割がでて自分を見せることができるし、指揮者は自分の解釈は・・と競争できるチャレンジングな対象だとおもう。だからこれからも演奏したい、聴きたいということで、ずっと演奏され続けていくだろう。
ところで原題は「ボレロ」で「永遠の旋律」は日本がつけたおまけだった。こんなおまけは付けないほうが良い。
(3枚の写真は、映画の公式HPより)
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