天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

板垣征四郎

2014-07-07 04:43:53 | 歴史
巣鴨の刑場で花山信勝に対して

「自分のようなものが、この糞土の身を変えて

黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。

ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、

非常に幸いであり喜びである」と述べたという。

岩手県出身の板垣が処刑される間際の様子である。

陸軍大将板垣征四郎63才


『満州事変の中心は自分であり、責任は全て私にある。

何故私を戦犯として逮捕しないのか不思議である。

こんな戦争裁判はたわけた事だ。』

と語る山形出身陸軍中将
石原莞爾59才

共に東北出身であり石原は兄を庇う弟のような存在であり

奇しくも岩手県出身の東條と反りが合わず石原は左遷されている。

板垣は実際石原の戦術論に感銘を受けており、満州事変は

石原の立案で板垣が実行したようなものである。

やはり年下で同郷から石原を庇ったのだろう。

こんな二人が関東軍として暴走せしめたであろう筈はない

満州国が建国されると板垣は満州国執政顧問となった時のエピソードだが

国家を安定させるには税制が大切で満州国からの要請をうけ、

日本の大蔵省から国有財産課長の星野直樹が派遣された。

星野は満州における租税制度の問題点、欠陥をとことん調べ上げ、

合理的な租税体系案を練り上げた。

ところが関東軍も近代的税制を研究し、方針を固めていた。

星野は板垣に直談判し、関東軍の方針の取り消しを求めるが

板垣は星野の話をじっくり聞き、いったん拒否する

しかし、星野は熱心にとき、ついに板垣は

「よしわかった。君には負けたよ。われわれ関東軍がどんな心持でああいう決定をしたかを説明したまでだ。

それがよくわかってくれれば、私のほうで何も言うことはない」

と述べて星野案に協力するとしました。軍人として威張ることなく、

民間人にも対等に接し、しかも天下の関東軍の決定まで撤回する板垣の度量の大きさに

星野は並々ならぬ魅力を感じたといいます。

これだけ関東軍は暴走、侵略や残虐非道なイメージとして

後に脚色されるのに板垣に関してマイナスの文献が少ない

と言うことが板垣の人柄か現れているに違いない。

石原莞爾

2014-07-07 00:05:55 | 歴史
「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。

「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。

石原莞爾とは何者であったのか?

一言で表現すれば「コンピューター」が適当だろう

戦争に対する先見性と戦略は人並外れた天才、それゆえ

上官に対しても礼を欠き孤立の道を辿る。

最終戦論は1940年に発表
東條により左遷される

もう少し詳しく辿れば

関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに

柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、

のちに東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた

1936年(昭和11年)の
二・二六事件の際、

石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にあ
たった。

この時の石原の態度について昭和天皇は

「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、

満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」

と述懐している。

1931年(昭和6年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、

23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、

日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。

このことがいかに手強い敵であったか、を物語っている。

満州事変をきっかけに行った満州国の建国では

「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、

満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。

日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、

石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国

(「東洋のアメリカ」)であったが、

その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、

それを実現するための民族協和であったと指摘される

大東亜戦争に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」

と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。

石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われるハルノートとほぼ同様の内容であった

(戦後石原は太平洋戦争に対しても、サイパンの要塞化、

攻勢終末点の確立をすることにより

不敗の戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。

また、そ戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」

修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、

米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、

大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、

常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張し

なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、

板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が

昭和30年(1955年)に手記を公表してからである

(昭和30年)『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」

昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦の取材に答える形で、

満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。

一人の歴史家の主観が歴史を修正する事の危険性を私は危惧するが

満州事変は自衛であるとし、

関東軍による謀略を否定していた当時の関東軍指導者である

本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは死亡しており、真相は闇のなかである。

秦郁彦氏には私は極めて懐疑的である。


「世界最終戦論」の骨子だけでも大まかな内容はうかがい知れる。

第一章 戦争史の大観
欧米戦史の変遷と戦争の性質(持久戦争、決戦戦争)について書かれている。

第二章 最終戦争
最終戦争での戦闘の様子について書かれている。

第三章 世界の統一
最終戦争に臨む可能性の高い勢力4つと、その後どこが残るかについて書かれている。

第四章 昭和維新
最終戦争で東亜が勝つための条件が書かれている。

第五章 仏教の予言
最終戦争が起こるという理屈が日蓮の予言を下に書かれている。

最終戦争勃発の条件として石原は、東亜諸民族の団結、即ち東亜連盟の結成。

米国が完全に西洋の中心たる位置を占むること。

決戦兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること。

の3つを挙げている。


天皇について

石原は、人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、

王道文明は初めてその真価を発揮する。

最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、

天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、

具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、

西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、

人類歴史の中で空前絶後の大事件である。

とし、また『戦争史大観』では

我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局

人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。

更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が

世界統一の霊力である。

しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、

日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。

理想論と言ってしまえば
それで話は終わる

だが仮に戦争が回避出来ていたならば、石原の描く平和世界の実現は

あながちそうナンセンスなものでもなく真の預言者となっていたかもしれない。