1.解釈
富田メモの中には「不快感」の文字は一字も書かれていません。現代史家の秦郁彦氏を代表とする研究者達は何故「天皇陛下が戦犯合祀に不快感」と訳したのでしょうか。
wikicp
《メモは、「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。松岡は日独伊三国同盟を締結し、A級戦犯で合祀されている元外務大臣の松岡洋右、白取はこれもA級戦犯で合祀されている元駐イタリア大使の白鳥敏夫、筑波は1966年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿とみられる。昭和天皇は、筑波宮司がA級戦犯合祀に慎重であったのに対し、筑波が退任後、A級戦犯が合祀されたことに懸念を表明し、その中でも松岡洋右と白鳥敏夫までもが合祀されたことに強い不快感を表明した。
メモは、さらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相の松平慶民。「松平の子」は、慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司・松平永芳とみられる。松平慶民は宮中に長く仕え、昭和天皇もその人物をよく知っていたが、その子供である松平永芳が、「易々と」合祀してしまったことに対して昭和天皇は「親の心子知らずと思っている」と、強い不快感を表明した。末尾には「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と記述されている》
富田メモにある「松岡、白鳥までもが」や「易々と」、「だからあれ以来参拝していない」「それが私の心だ」の言葉尻から推測すれば確かに
不快感と取れなくもありません。
今回はこの不快感について掘り下げて考察してみようと思います。
まずは不快感の矛先ですが、考えられるのは名前もあがっている松岡、白鳥、そして合祀と松平宮司といったところでしょう。
松岡、白取の部分の誤字ですが、正しくは白鳥です。少し穿った見方をすれば、宮内庁の長官にまで登り詰めた者が走り書きのメモとは言えこの様な誤字をするでしょうか。
つまり、富田長官が意図的に誤字をしたか常日頃白鳥氏を蔑んでいたともとれます。これは富田長官の戦犯或いは白鳥氏個人へ向けての不快感を持っていたのかも知れません。
白鳥氏に関してですが、白鳥敏夫は大正、昭和期の日本の外交官で政治家です。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた人です。
昭和6年満州事変が勃発しましたが白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出して、森恪や鈴木貞一陸軍中佐と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たしました。
事務総長のエリック・ドラモンド から内密に調停の私案が日本側に提示された際、白鳥は独断でこれを公表し、いかなる国際連盟の調停も拒否する姿勢を表明しました。
戦後の結果論から 冷静に戦争に至る反省を込めた見方をすれば白鳥の取った行動は確かに戦争遂行かも知れません。しかし誰が彼を責める事が出来るでしょうか、富田長官の白鳥氏に対する不快感は偏ったものであるとも言えます。
歴史家の戸部良一は白鳥が独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した、「この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒した」と著書の中に示しています。
あくまでも戦後の研究で明るみに出たことであり、確かに昭和天皇は白鳥敏夫の統帥権を干犯した発言に激怒しています。要するにメモに合わせて憎むべきは白鳥としての印象操作か悪のイメージでかたられます。
だからと言って白鳥が戦後戦犯として起訴され終身禁固刑の判決が下り、病死してまで当時の陛下の怒りが合祀に不快感を与えることは極めて疑わしいことであり、
226事件の反乱軍でさえ刑死したものを陛下が内々に鎮魂されていたことが中島鉄蔵中将の談話からも伺え、戦後の合祀をお知りになられた時に怒りや不快感があるとは思えません。
次に軍人ではない事への不快感なのでしょうか。
松岡、白鳥の他にも平沼、東郷、廣田と5人も軍人ではない合祀者がいるのです。
ではその他軍人の戦犯への不快感でしょうか。よく言われるのが東條ら戦犯は昭和天皇と靖国に戦没者を祀る側であるということです。
しかしながら自決した真岡郵便局の女性局員、沖縄対馬丸の児童、が合祀されるに至ってその合祀基準が軍人から国の為に殉じたものはたとえ戦場でなくとも、病死者であっても構わないのです。
国会決議で公務死とされた戦犯が昭和殉難者として合祀されたのです。このことに関して陛下が不快感など表すはずはありません。よって不快感は意図的な印象操作であることは明白になるのです。つまり陛下のお気持を曲解或いは捏造して靖国神社の御親拝中断の理由としたい者の不快感なのです。
冷静に考えれば天皇陛下は確かに合祀には慎重であるべきであるとお考えになられていたことは確かでしょうし、合祀によって政治問題化すれば中断が長引くのですから当然です。
ですから富田メモが陛下のお言葉と仮定するならば「天皇陛下が戦犯合祀に不快感」ではなく
「天皇陛下が戦犯合祀のタイミングに不快感」であるとするメモ書きが正しいのです。
富田メモの役割は戦犯、合祀、松平へさも陛下が不快感を持っているかの様な意図的誤訳をすることで戦犯はおろか靖国神社さえも全て軍国主義として纏めて貶め葬り去ることが可能ということです。
それを踏まえてもう一度メモを読んで頂くと
「私は或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」
「松平は平和に強い考があったと思うのに」
「易々と」
「親の心子知らずと思っている」
「だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」
《会長現代語訳》
「戦犯が合祀されたと随分あとから聞いたけど、いきなりで驚いたよ、松岡、白鳥は軍人ではないが合祀基準は変わったのか?なんでまたいきなりのタイミングなのか?まえの宮司はタイミングを良く見計らっていたけど、松平になってすぐさまで大丈夫か?騒ぎはおきていないか?松平の親父は随分平和主義だったけど、親の心子知らずとはよく言ったもんでやり辛いことをすんなりやってのける。
予想通り靖国問題なんて騒動になってまた行けなくなったでないか!」
如何でしょうか合祀に不快感と合祀したタイミングで問題化して不快感の違いがおわかりになれたでしょうか。
2.中断の理由
では何故中断されたのか、靖国神社を巡って国会で政教分離、首相の公的参拝が社会問題化してしまったからです。最後の御親拝が昭和50年11月21日ですからその後の53年10月17日に合祀され中断されるには時系列から言っても整合性が取れません。
三木首相までは陛下の御親拝と首相の参拝は問題無く行われていました。三木首相の私的参拝の年を最後に御親拝は中断されています。その後所謂戦犯が合祀されます。昭和60年に中曽根首相が無作法な公的参拝し朝日が取り上げ中国が合祀の靖国を内政干渉し参拝を取りやめてから内外の靖国問題として表面化しました。
この国内では公務死とされ戦犯はいなくなりましたが、中国をはじめとする国外からは戦犯として見られるという二元論を中曽根首相は確定させてしまったのです。
この国外からの内政干渉は日本の新聞社が焚き付けたものであり、【戦犯、戦争責任者】の合祀を巡って分祀という造語までして靖国問題が一気に表面化したのです。
要するに首相の参拝の政治問題化で中断し戦犯の合祀が更に大きな政治問題となって天皇陛下の御親拝が中々実現されないのです。
53年に合祀されてからも首相の参拝は20回を超えているのです。この形式化しパフォーマンスと化した首相の参拝を見るにつけ次の様な御製をお読みになられています。
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれいはふかし」
60年の御製ですが10年前の御親拝から「靖国に行けない状態が続き靖国のことを思うと深い悲しみをおぼえる」となるのです。
63年の全国戦没者追悼式での崩御される数ヶ月前の御製が
「やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど」
ですが、御製に於いて「くやしい」などの表現はとても珍しく
「争いごとのない状態を祈っているのにまだ合祀のことで波風がたちきざしは見えているのに靖国に行けないことが悔しくてたまらない」と私には聞こえます。
3.富田メモの意味
富田メモは昭和63年の会見の徳川侍従長の話しのメモであり、陛下に一番近い者のメモとして信憑性があることはわかります。
所謂戦犯の合祀は昭和53年10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されています。
松平宮司は9月に上奏していますが、一方徳川侍従長は11月になってようやく出してきた、と述べています。
このことからも松平宮司が戦犯の名前を伏せて上奏してきたのを見落として合祀されてしまったことは合祀に慎重であるべきと考える徳川侍従長にとっては騙し討ちだったのかもしれません。
この富田メモの真の意味は合祀に慎重であるべきとの陛下のお考えを実直に守った徳川侍従長は前宮司と同じ棚上げ派の立場から語ったものを富田長官がメモをした。これ以上でもなければこれ以下でもないと考えます。
「陛下が合祀に不快感」という訳は間違いではないが言葉足らずであり、靖国問題の根源になってしまっているのです。
4.曲解の理由
徳川侍従長と富田長官まで遡って考えずに、何故富田メモが言葉足らずで陛下のお気持を曲解して
不快感としたのかを考えます。
関係者没年を見ますと
平成8年徳川侍従長
平成15年富田長官
平成17年松平宮司
となって日経新聞社がスクープとして平成18年に富田メモを公表しています。
それは関係者が不在であやふやの状態を故意に演出したスクープであると考えられます。
A.東京裁判の判決を否定する靖国
B.合祀に慎重であった徳川侍従長、戦犯を分祀したい勢力
この様なA対Bの対立の構図でBに利する様なスクープになっています。
戦後日本は占領政策と東京裁判で軍国主義を否定して成立してきました。その中にあっての矛盾が靖国神社だったのです。
靖国神社の招魂社からの軍人軍属の顕彰施設を主に考える事で、軍国主義の象徴として靖国を否定したかったBの勢力は天皇陛下の御親拝中断を利用し、保守勢力を駆逐したかったのです。
首相参拝を内外の二元論をそのままに、合祀を問題化させて靖国神社と決別する目的のもとに中断を政治利用したのです。
つまり靖国神社は天皇陛下も行かない、戦争責任者を合祀する危険な軍国主義の象徴なのだという一大キャンペーンの広告に利用する為の曲解だったのです。