《小林よしのり靖國論より》
靖國神社の昇殿にある鏡と剣が御神体です。
合祀は、真っ暗闇の夜に人霊を和紙で作られた「霊璽簿」(れいじぼ)に筆書きで移し、更に、靖国神社の御神体である鏡に写して「神霊」とし、秋の例大祭の初日にこれをお招きし、霊璽簿を前に宮司が祝詞を上げ、本殿正面の扉を開き、霊璽簿奉安殿に納める神社儀式です。
厳密には霊璽簿と言うのは英霊を招いて合祀するための伝達手段なのでそれ自体は御神体ではありません。
ですからその神鏡と靖国神社で作られた日本刀が神剣として祀られていてそれが霊璽(みたましろ)
霊璽簿はあくまで副霊璽(そえみたましろ)です。
小林氏は映画YASUKUNIの中国人監督を小馬鹿にしているようですが、正確には靖國には神鏡は二面あるそうです。
1868年作者不詳
江戸城大広間招魂祭のものと
1877年後藤功祐作
明治天皇からの幣帛料で製作
ドイツ製のガラス、鏡台は黒檀に菊花、桐葉、鳳凰、双竜の彫刻が施されたもの。
小林氏の言う拝殿の外からも見える鏡は後者です
中国人監督の言う刀を剣であると指摘していますが
神鏡が2面あることまで知らないのですから
人の事をバカに出来るのか?と思ってしまいます。
靖國神社は創建より150年。浅いと言えば浅いそれ故否定される場合その創建からの浅い年月が槍玉にあがります。また昇殿参拝をしても『246万余柱の英霊』の実感はあまり感じられない。
英霊の言乃葉と言う小雑誌が土産物として販売されています。英霊の遺書や歌を読まなければその実感は感じられないのでしょう。
この遺族でもない私が感じる空虚感、御親拝が中断している寂しさでしょうか、入り口の巨大な大鳥居と菊の御紋に確かに感じる靖國。
14人の合祀など参拝で知る術もない。
政治的な圧力を街宣右翼の騒がしさにしか感じることができないのです。
政治的な圧力に耐え明治から今を貫いた靖國が当たり前のようにそこにある。
それは時代の新旧や軍属などマイナスイメージを受け付けない祭神の厳かさなのでしょう。
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